いつまであなたはこのようなことを語るのか。あなたが口にすることばは激しい風のようだ。
神は広義を曲げるだろうか。全能者は義を曲げるだろうか。
もし、あなたの子らが神に罪を犯し、神が彼らをそのそむきの罪を手中に送り込まれたのなら、
もし、あなたが、熱心に神に求め、全能者にあわれみを請うなら、
もし、あなたが純粋で正しいなら、まことに神は今すぐあなたのために起き上がり、あなたの義の住まいを回復される。
ヨブ8:2-6
ヨブ記を読むと、心が苦しくなります。
また、「隣人を自分のように愛せよ」(マタイ22:39)という御言葉を思い出します。
この「隣人を愛する」とは、いつ隣人を愛せばよいのでしょうか。
反対に、自分なら、どんな時に愛されるのを望みますか?
孤独な時、失敗した時、寂しい時、悔しい時・・・こんな時に誰かに温かい言葉をかけられる事を望みませんか?
聖書を見ると、沢山の登場人物がいます。色々な人物を通して人間の本質が見えるものです。
ヨブ記を読むと、ここで重要な登場人物は、ヨブと3人の友達です。
ヨブはある日を境に、困難が次から次へと降りかかって来たのです。
7人の息子と3人の娘が死に、財産を失い、重い皮膚病にまでかかるのです。
そこへ3人の友達が”慰めに”やって来るのです。
しかし次第に、ヨブを責め立てるのです。「お前の子どもに罪があるからに違いない」「早く悔い改めをしろ」「お前は口が上手ければ正しいと認められるのか」・・・
この3人の友達は、ヨブを苦しめようとこのような事を言っているのでしょうか。
慰めに来た3人の友達は、ヨブの変わり果てた姿を見て、声を上げて泣き、自分の衣を引き裂いたと記録されています。
そして、7日7夜、あまりにもショックでヨブに声をかけれなかったとあります。(ヨブ2:12-13)
思いやりのある良い友だちなのです。
あまりにもヨブの悲惨な変わり果てた姿を見て、友達は心が痛み、ヨブが早くこの苦悩から解放される事を望み、良かれと思って発した言葉が、ヨブにとっては責め立てるような内容になったのではないでしょうか。
そして責め立てる様な言葉は長々と続くのです。「この様な苦難に見舞われる原因はあなたにあるのではないか・・?」と裁くのです。
ヨブの立場ではどの様に感じるでしょうか。
「悔い改めろ」と言われなくても、あまりにも大きな苦難に見舞われ、自分の中にある罪に対して、信仰の姿勢など、何度も自分に偽りがないか見直したのではないでしょうか。
「そんなこと・・言われなくても分かってる!」
友達の心は心配や哀れみから始まったかもしれませんが、一言一言がヨブを苦しめているのです。
悪気がなく友達は心配してかけた言葉、良かれと思ってのアドバイスにも拘らず、大事な友達を一層苦しめているのです。
私たちにも、この様な姿を見る事が出来ます。
私たちも苦難の渦中にいる人に、「祈ってる?」「もっと祈らないとダメだよ」「祈れば主は答えて下さるから!」と言われた事、言った事はないですか?
言った本人は、裁くつもりはなく、どちらかと言えば哀れみの心を持って、早く苦難から解放されるようにと思って、親切心で言っていると思います。
しかし言われた側はどうでしょう。
祈ってるし・・祈ってるけど現状が変わらず苦しいまま・・という状態なのです。
私たちが何気なく発している正論である御言葉、何気なくとっている行動が、寄り添い愛するべき兄弟姉妹を、一層窮地に追い込んでいないでしょうか。
ヨブの友達が言った言葉は正しい言葉です。御言葉に沿った言葉でもあるのです。
友達が言った、「問題が起これば立ち止まり、主に悔い改める事がないか心の中を探り、一刻も早く悔い改め許しえを得るべき」なのです。
しかし、この正論は、ヨブの心に寄り添えているでしょうか。
ヨブを一層、苦しめ、孤独にしていないでしょうか。
主は、私たちに「隣人を愛せよ」と言われています。
人を裁くのは主の役割であり、私たちの役割は、隣人を愛することです。
私達は、自分の間違いに気付かない事が多いです。
自分が正しいと思って取っている行動が、的外れな事があります。
御言葉は正しいです。正論です。しかし・・
私たちの役割は、隣人に対して「寄り添い、励まし、愛し、執り成しをし、祝福する」という事だけです。
忘れないようにしたいです。
今日も主の中で、豊かな一日をお過ごしください!!