不運はどうして起こるのか【マルコ15:21】

2023年

そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。

マルコ15:21

私たちは何気なく毎日を過ごしています。

今通っている学校、会社、道で偶然あう友達、目について入ったカフェ、何となく選んだ旅行先・・

人生で起こる多くの事を、特に考えもなく自分の前にある道かのように歩んでいます。

今通っている学校は、努力した結果の学校。

思っていた通りの就職活動が出来なく、たどり着いた所が今の会社。

もしくは特に夢がなく条件だけで選んだ会社かもしれません。

時には、心に残る大きな選択をしたことがあるかもしれません。

理由はどうであれ、生きている中で色々な選択をしながらも、開けた道を歩んでいます。

これら日常生活で起こる全ての事は、偶然でしょうか。

それとも自分の選択でしょうか。

今日、電車を一本乗り過ごしたのは、単に運が悪かったのでしょうか。

偶然を掻き分け生きているのか、それとも「主の必然」の中を生きているのでしょうか。

聖書の中に、偶然、不運に見舞われたような人物がいます。

クレネ人のシモンです。

この人は、北アフリカの地中海沿いにある町から、2人の息子を連れ過越の祭りの為に、エルサレムに巡礼に来ていたようです。

シモンは子どもと共に歩いていました。すると突然、兵隊が無理やりシモンを引っ張っぱり、「イエスの十字架をむりやりに背負わせた」と記録されています。

本来であれば、十字架刑に処せられる罪人が、自分の十字架を刑場まで背負っていくようですが、イエスさまは刑の前に鞭打ちで痛めつけられ、完全にボロボロの身体になり弱られていたのです。

その場をシモンは偶然通りかかり、兵隊に捕まえられ、無理やりに十字架を背負わされたのです。

全く関係のないシモンは、強制的に重い十字架を担ぎ、イエスさまと一緒に群衆から罵声を浴びる事になったのです。(少し先の群衆は、シモンがどうして十字架を担いでいるのか知らない。イエスさまの側の人間のように見えたのではないでしょうか)

シモンの心情はどうだったでしょうか。

想像もしなかった不運に巻き込まれたのです。

シモンについては、福音書には「イエスさまの代わりに十字架を担いだ」としか記録がありません。

しかし、シモンの2人の子どもは、「アレキサンデルとルポス」だと記録されています。(マルコ15:24)

ルポスは、ローマ16:13に出てきます。「パウロのかけがえのない同労者」だったことが記録されています。

もともと、この事件が起こる前からシモン一家は、エルサレム巡礼に来るクリスチャンでした。

しかし、シモンがこの主の十字架を背負ってから、この家族に大きな変化が起きたのです。

シモンの家族は、主の働きをする人に変えられたのです。子どもはパウロと共に異邦人宣教に対して大きな働きをしました。

シモンの妻もパウロの世話をし、パウロを支えた人と変えられたのです。(ローマ16:13)

シモンが十字架を背負わされた時、イエスさまを見たでしょう。この人は一体、どの様な罪を犯し十字架刑になったのだろう・・と考えたでしょう。

また理不尽に浴びる罵声・・ローマ兵に逆らう事は出来ない社会です。シモンは自分の身の分を嘆いたのではないでしょうか。

イエスさまが十字架で亡くなり、イエスさまを十字架につけたローマの百人隊長は、「この方はまことに神の子であった」というのを聞いて、シモンはどう思ったでしょう。

蘇られ、皆があの方は神の子であった・・と分かった時、シモンの心はどうだったでしょうか。

今までは理不尽な不運に見舞われたと思っていた出来事が、イエスさまの十字架を代わりに担ぐという大きな使命の助けとして、自分が用いられていた事に気付いたのです。

神さまの計画、しかもこの十字架の死という計画は、全ての人類に関わる計画です。

シモンはその助けをしていたのです。不運に見舞われたのではなく、祝福の器として選ばれていたのです。

大きな困難の後に大きな祝福が来ます。

主の十字架を背負い、シモンは大きな祝福を得たのです。

主の十字架を背負うとは楽な事ではないです。しかしその先に思いもしない祝福が計画されているのです。

私たちも、試練があったから、大きな過ちを犯してしまったから、キリストに出会えたのです。

本当に苦しく、生きるのが辛い思いを重ね、「何の為に生きているんだろう」「自分の人生に意味はあるのか。価値はあるのか。」と苦悩される方が多いです。

しかし、主に出会い、苦悩があったからこそ主の恵みが大きい経験をされている方も多いです。

人生最悪の日が、救い主に出会う日となるのです。

私たちの過去に起きた出来事、嫌な思い、心に受けた傷は、なかった事にする事はできません。

しかし、主に出会い、過去に起きた沢山の出来事に、意味があったと知る事はできます。

今までの一言では語れない沢山の思いに、主の計画があった事を知る事は出来るのです。

シモンは、とばっちりだった出来事が、人生最大で最高の出来事になったのです。

今日は、全ては主の必然の中を歩んでいると心に留めながら一日を過ごしたいです。

主の恵みが豊かにある一日をお過ごしください!!

タイトルとURLをコピーしました