あなたの恵みを私は楽しみ、喜びます。あなたは、私の悩みをご覧になり、私のたましいの苦しみを知っておられました。
詩篇31:7
先日、長男の小学校の時の同級生のお母さんから連絡が来ました。
凄く久しぶりです。小学校を卒業して、韓国の中学校に行ったと知っていたのですが、それ以降、連絡が途絶えていました。
久しぶりに、子どもたちがどの様に成長しているか近況報告会でした(笑)
小学校の時からダンスが好きな女の子で、今もダンスを続けており、将来もダンスを生かせる職業につきたいとの事。
そして、去年初めてエキストラのダンサーとして、映画デビューをしたと話していました✨
お母さんは凄く嬉しそうに話していました。DVDを購入し、チラッと映った娘を、何度も何度も見たそうです。「我が家では、この映画の主人公はうちの娘なのよ~~(笑)」と言っていました。
電話が終わってから「そうだな~ 見る人によって主人公って変わる・・」と思いました。
「主人公」と決められた人以外も、見る側の立場によっては主人公になれるのです。「脇役」設定の人も主人公として注目されるのです。
そんなことを考えていたら・・
聖書を小説や映画として考えると、聖書にも沢山の脇役のような人がいます。
イエスさまが十字架に架かる為に、エルサレムに向かう道中、目が見えず物乞いをしていた「バルティマイ」という人が大声で「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と、叫び続け癒しを得ることができました。(マルコ10:46-52)
ザアカイもそうです。バルテマイが目を見えるようになってから、イエスさま再び、エルサレムに向かっておられました。そしてエリコを通られた時、ザアカイに会うのです。(ルカ19章)
長血を患う女の話もそうです。会堂管理者のヤイロが、「娘が死にかけている」とイエスさまの足元にひれ伏し自分の家に来てくれるように頼みました。その道中で長血を患う女性はイエスさまの着物を触り癒されました。(ルカ8:41-42)
中風を患っている人を屋根の瓦をはがし、イエスさまの前に降ろした話もそうです。この時、イエスさまはパリサイ人や律法の教師たちに教えておられました。そこに割り込んで来たのです。(ルカ5:17-26)
小説として読んで見たら、この人たちは脇役です。
中心となるストーリーに割り込んで来た人達です。
しかしイエスさまは、脇役をないがしろにせず、一人一人に向き合ってくださいました。
時間を取り、話を聞いて下さったのです。
脇役にしか過ぎない人を、脇役として扱わず、一人一人を主人公として扱って下さっています。
聖書の中に、すごい脇役がいます!
中心となるストーリーに割って入って来た人物です。
イエスさまが十字架の死を全うしようとする時に、脇にいた強盗です。
「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」と願い、
イエスさまに「あなたは今日、わたしと共にパラダイスにいます」と言ってもらったのです。(ルカ23:39-43)
イエスさまは、今まさに、ご自分の人生を、ご自分の使命を全うしようとされている時に、強盗は割り込んできました。
イエスさまは、想像を絶する苦痛の中にあっても、強盗を主人公として扱い、救いを施されたのです。
主は、私たちを80億のうちの1人ではなく、主人公として見て下さっているのです。
取るに足りない私たちでも、主の目には主人公なのです。
主が今日も、私に注目されています。
今日も、注目して下さっている主に、祈りを通して沢山話しかける一日となりますように!