「エジプトの王パロのところへ行って、彼がイスラエル人をその国から去らせるように告げよ。」
しかしモーセは主の前に訴えて言った。「ご覧ください。イスラエル人でさえ、私の言うことを聞こうとはしないのです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。私は口べたなのです。」
そこで主はモーセとアロンに語り、イスラエル人をエジプトから連れ出すため、イスラエル人とエジプトの王パロについて彼らに命令された。
出エジプト6:11-13
主はモーセに、エジプトで奴隷になっているイスラエルの民を、連れ出すように命令されました。
モーセは、「イスラエル人でさえ、私の言うことを聞きません。エジプトの王パロは、尚更でしょう。私は口下手です」と答えました。
モーセは以前にも、主に対して同じ言い訳をしています。主はそれに対して「私が共に居る・・」言われましたが、モーセは素直に聞き従いませんでした。
主は怒って「モーセの兄アロン」を共に行くことを赦しました。(4:14)
これって少し面白いですよね。
アロンが、口が立つのであれば、始めからモーセではなくアロンを選んだらいいのに・・
口が立つアロンがいるなら・・・ だったら、アロン一人で行っても良かったのでは? パウロとアロンを2人で行かせる理由はなんだろう・・って思います。
どうして初めから、主はアロンを選択しなかったのか? モーセの口下手を理由に、アロンと2人で行かせたのか。その理由は分からないですが、
アロン一人ではダメで、モーセ一人でもダメだったのだと思います。
それぞれの賜物が必要だったんだろうな・・と思います。
モーセはイスラエル人に話しても、民は話を聞こうともしないと判断したのは、どうしてでしょうか?
落胆と激しい労役が原因です。これは私たちも本当に注意すべき点です。
忙しすぎると、未来について、少し先についてさえ、何も考えられないのです。目の前にあることだけで、精一杯なのです。
私たちも、主の御声を聞けなくするものは、この2つです。
「落胆」している心は、主の希望の声を受け入れません。跳ね返すのです。
そして、安息を取らずにひたすら目の前にある仕事に集中し、自分の意志で生活していれば、主がそこに介在する余地がなくなります。
また、このモーセの「どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。私は口下手です。」という答え。
実は、今回が初めてではありません。
モーセがシナイ山のふもとで、主から使命を受けました。燃える柴を見た時です。この時と同じです。(3章4章)
パウロは燃える柴を見て、主から使命を貰って以降、信仰が成長した様子でした。
しかし、また成長する前のモーセに戻っているのです。
これも、私たちとよく似ています。
私たちも、主にスッゴク満たされて、信仰がステップアップしたかのように感じる事があります。しかし、また何か生じたら、逆戻りしてしまったような事はないですか?
「あれ?何か信仰が強くなったと思っていたのに、最近またダメな感じ・・?」
こう感じるのは、原因が決まっています。
今目の前にある自分の状況に、目も心も奪われているのです。
せっかく主を見上げる事が出来ていたのに、私たちって弱いものです。自分の考えでまた物事を見てしまい、判断し、無力感に襲われてしまうのです。
信仰が上がってたのに、下がってる? と感じる時は、心が主から離れてかけているからです。
そのモーセでさえ、信仰は上がったり下がったりだったのです。