23 私は、そのとき、主に懇願して言った。
24 「神、主よ。あなたの偉大さと、あなたの力強い御手とを、あなたはこのしもべに示し始められました。あなたのわざ、あなたの力あるわざのようなことのできる神が、天、あるいは地にあるでしょうか。
25 どうか、私に、渡って行って、ヨルダンの向こうにある良い地、あの良い山地、およびレバノンを見させてください。」
26 しかし主は、あなたがたのために私を怒り、私の願いを聞き入れてくださらなかった。そして主は私に言われた。「もう十分だ。このことについては、もう二度とわたしに言ってはならない。
27 ピスガの頂に登って、目を上げて西、北、南、東を見よ。あなたのその目でよく見よ。あなたはこのヨルダンを渡ることができないからだ。
28 ヨシュアに命じ、彼を力づけ、彼を励ませ、彼はこの民の先に立って渡って行き、あなたの見るあの地を彼らに受け継がせるであろう。」
申命記3:23-28
旧約聖書に出てくるモーセ!
モーセは主からの示しを貰いました。「イスラエル人たちをエジプトから救い出し、“カナン”という約束の地へ行きなさい。」
エジプトに居るイスラエル人の同胞たちを、解放するようにファラオ王に訴えます。
しかし、ファラオは当然これを断ります。そこで、モーセは持っていた杖を神の力で蛇に変えてみせ神の力を証明しようとしましたが、ファラオは承諾しません。
後、モーセを通して神さまによる10の災いがエジプトに次々と降り注ぎました。10個目の災いでファラオの子どもが殺されてしまい、ファラオはイスラエル人の解放を許可します。
しかし、いざモーセたちがイスラエル人を連れてエジプトを出ると、ファラオは心変わりして戦車などを使ってモーセたちを追ってきました。モーセの前には大きな海。モーセの杖をかざし海を二つに分けて、イスラエル人はやっとの思いで、ファラオの手から逃れました。
モーセはファラオの手から逃れるまで大変苦労しました。しかし、本当の苦難はこれからでした。主の約束の地「カナン」に着くまで40年かかったのです。
その40年間、民が文句を言い続けます。「喉が渇いた」「お腹が減った」「肉が食べたい」「エジプトで奴隷してた方が良かった」その度にモーセは祈り、主が奇跡を起こし民の要求にこたえて下さっている事を何度も民は体験しました。しかし、民たちはモーセが居ないと偶像を作ったり・・・
今日の御言葉は、40年の苦難を乗り越え、とうとうカナンの地を目の前にした時の場面です。今までの苦労がやっと報われて、約束の地カナンに入ろうという時です。23節の「この時」とは、まさしく今からカナンの地に入ろうとしている時を示しています。
しかし、主は「モーセはカナンの地には入れない」と言われたのです。
モーセは主に対して罪を犯してしまっていたからです。民が喉が渇いた!と言った時に、主は「彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。」と言われたのに、モーセは、不満の多い民たちに疲れ苛立っていました。主が言われた通りせず、岩を杖で2回叩き、水を出したのです。
これがモーセの罪です。これだけで、カナンの地に入れてもらえないの??と思いませんか?
モーセのこの行為は、民の目には、主がなして下さった御業ではなく、モーセが偉大な人力を超えた奇跡を行える人物に見えたのです。
また当時は律法が重んじられていました。律法を一つ守らないとそれは罪に定められたのです。
今までどれ程の苦労があろうと、当時は罪に定められたのです。また、モーセは偉大な人物として用いられ、祝福を受けました。民たちが経験できないような試練もありましたが、祝福も大きかったのです。
大きな使命を受け、大きな祝福を受けたリーダーは、主の要求も大きいのだと思います。
私たちがここで学ぶ事は、「熱心に祈り求めれば、与えられるのではなく、神の御心であれば与えられる」という事の、再確認です。
また、自分の願い通りにはならなかったが、「自分に許されたもので満足する」という事です。
主の恵みは尽きる事がなく、一つではないのです。
自分が望んだ通りに成就する事だけが、主の恵みではなく、その道が御心でなくても、他の祝福は山ほどあるのです。
私の目には、私が欲するものが一番の恵みのように見えますが、主の目には違うものが私にとって一番の恵みかもしれません。私たちは見極められない存在です。
モーセはカナンの地に入る事は赦されませんでしたが、主の哀れみによりモーセは、山の上から約束の地を見せて頂いています。(27節)
私たちは、自分の思い通りにならない事が沢山ありますよね。
もう少し、願いを叶えて下さったら・・・嬉しいのに・・なんて思いませんか?
私は、時折、そう思ってしまいます。
もう少し願いを叶えて欲しい・・・思い通りにいかない事が多いです。
その様な思いが私の心に生じた時、思い出す聖書の箇所があります。
悪魔がイエスさまを誘惑した箇所です。(ルカ4:1-13)
悪魔は、イエスさまを3度、誘惑しイエスさまに世界の国々を全部見せて、こう言うのです。
「この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう。」
もしも、この様な力が与えられたら、人生は全て思い通りになり、ストレスもなく、苦しみ苦悩する日々がなくなるのです。
しかし、この聖書の箇所を通して、聖書はそれらすべての事が「悪魔」の誘いなんだと告げているのです。
イエスさまは、一つ一つの誘惑に対して、聖書の御言葉を用いて対応しています。
「御言葉に書いてある。だからダメなんだ!」と。
イエスさまも、モーセのように天の父に切に願い求めた事があります。
「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。(ルカ22:42)」
しかし、イエスさまの願いは聞かれなかった。
より大きな祝福をもたらす為にです。
自分の思い通りにならない人生・・・
きっと私が願う願いは、私には必要がない恵みなんだと思うようにしています。
主が与えられようとしている恵みは、私の想像を超えたもっと素晴らしいものだからです。
今日も、主が与えて下さる恵みに感謝して過ごしましょう!