イエスは彼が伏せっているのを見、それがもう長い間のことなのを知って、彼に言われた。「よくなりたいか。」
病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
イエスは彼に言われた。「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」
ヨハネ5:6-8
今日の御言葉も、教会などでよく聞いた話だと思います。
「ベテスダ」と呼ばれる「神の慈しみの池」があります。そこには、沢山の病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていました。
水が動き、始めにその池に入った者は、癒されるかもしれないという言い伝えがある池です。
ある男の人は、38年もの間、病気にかかっていました。そして癒しを求めてベテスダの池に伏せっていたのです。
そこにイエスさまが来られ、沢山居る中から、この男の人に声をかけられたのです。
「良くなりたいか」
初めてこの個所を読んだ時は、イエスさまって変な質問をするな・・・と思いました。
「良くなりたいか」って、当たり前ですよね・・
良くなりたいから、長年の病気から解放されたくて、男の人はこの池に来ているのです。
主はどうしてこのような質問をされたのでしょうか?
この男の人の答えに理由があります。
男の人は、主の質問に対して、「はい。良くなりたいです。」と答えませんでした。
「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。行きかけると、もうほかの人が先に降りて行くのです。」
これが、この男の人の心情なのです。
自分の病が治っていない理由を述べたのです。
自力では池に入ることが出来ず、自分を助けてくれる人が居ないという理由のせいにして、癒しを諦めていたのです。
「自分は癒しを受けれない・・だって自分を助けてくれる友が、自分にはいないから・・」
体だけが病んでいるのではなく、癒されたいという意思まで砕かれてしまっていたのです。
イエスさまは、人のせいにして現状を嘆く男の人に、「あなたは」どうしたいのか、と問われたのです。
本当に癒されたいのか、回復して立ち上がりたいのか、変わりたいのか、新しい歩みをしたいのか、主体的な答えを求めたのです。
私たちはどうでしょうか?
多くの人は、今、自分の置かれている状況の中で失望しています。あきらめているのです。
「良くなりたいか」と問いかけられたとしても、
「努力をしても、成功する事が出来ず、いつも期待に裏切られる」と答えるのではないでしょうか?
「こればっかりは流石に・・・」「自分に与えられた重荷だと思っています」「だってどうあがいたって、今まで無理だったんだよ・・」
そして無力な状態で、無気力なまま、虚しい思いのまま、どうする事も出来ず、自分の問題をそのままにしていないでしょうか?
私たちは、長年癒されない、心の傷や、悲しみ、寂しさ、許せない思い、失望感、拒絶感などを、それぞれが抱えているものです。
そして、変化のない自分が当たり前になって、
いつのまにか抱えている重荷を受け入れ、
癒しと解放を諦めてしまっているのです。
今日も、イエスさまは私たちに、「よくなりたいか」と聞かれます。
聖書には、全ての人が罪の中で死んでいるとあります。罪の力の中にいることが、自分の自然の状態なのだと思っているのです。
今日、私は自分の中に、諦めてしまっているものは無いか、探ってみます。
諦めを背負ったまま生きていないか・・・
今日も、主と共に歩む一日となりますように!!