金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。
へブル13:5
今日はお金についてです!
聖書は、お金についても何箇所も記載があります。
お金って、現代だけでなく、ずーっと昔から、人間にとって心を支配しやすい、欲が出てしまう、私たちを主から引き離すきっかけとなるもの・・・
確かに、難しい・・と思いませんか?
私は、お金について考えると、知り合いの神父さんを思い浮かべます。
その先生は、究極な生活をされています。(私の目には)
一生、主にだけ仕えると心に決め、若い時から結婚をされない事を選び、すっごく狭いアパートに一人で住んでいます。
コップもお茶碗も、お箸も、すべて先生の分しかありません。神父さんなのでスーツは必要ですが、数着しかありません。社会弱者に向けての働きをされています。凄く尊敬できる先生です。
先生は、ご自分の生活を我慢して無理して、自分に強いている訳ではなく、満足されています。
しかし、私はいつも「あ・・私には出来ないな・・」と思ってしまいます。
ソロモンはこう記しています。
金銭を愛する者は金銭に満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。(伝道者5:10)
パウロも・・・
金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。(Ⅰテモテ6:10)
金銭を愛いすることが、あらゆる悪の根・・・
確かに、戦争をはじめ、争いごとの多くは大抵お金が絡んでいると思います。いかに自分に利益になり有利になるか。このような考えが、大きな争いへと繋がっています。
多くの人は、とりあえず、お金があれば幸せになれると思っています。
「毎月、プラス〇〇円あれば・・」と思っても、それを手に入れると、また「やっぱりもっと必要・・今より毎月、プラス〇〇円欲しい」と思ってしまうのです。
お金って不思議で、持っている人ほど、もっと必要!!と感じるようです。
しかし実際の所、お金って大切ですよね。
お金があれば、生きて行くうえで、安心材料ですよね。まず衣食住に困らないし。
誰であれ、私も、お金があれば、心にも余裕を感じ、お金が本当に無い時は、ずっと心配が付きまとい、ため息がでます。
私は、経済的に難しく追い込まれると、パウロっていいな・・とパウロを思い出します。
パウロは、家族も持たず、特に何も持っていなかった。何年も、何回も伝道旅行に、全てを費やした人生だったし。
でも、パウロは、何も持たないようでも、すべてのものを持っていると言いました。
聖書を通して、礼拝と通して、「お金より信仰が大切」と聞いて、「そうだよね・・・そうありたい・・」と思っても、なかなか、心から、そのように告白できるのは難しい・・・
でももし、パウロのように、何も持たない人生であっても「私は全てを持っている」と言える人生であれば、、、
人生が怖くなくなりますよね!
心配がなくなります。気苦労もなくなります。人生の大きなものから解放されます。
マタイの福音書に「あなたの宝のあるところに、あなたの心もある」とあります。
言い換えると、「自分の心を置く所が、自分の宝」という事です。
大切なのは自分の心をどこに置いているのか。
聖書は、お金を持つことを禁じている訳ではなく、、、金銭を愛すること、金銭に支配されないようにと言われています。
どうしたら、お金を愛さずにいられるのでしょうか。
私たちはキリストを信じ、自分の救い主だと告白しました。
キリストの命は、私たちの外にあるものではなく、内にあるもの。私たちの内にあるのだから、私たちが自分でコントロールするというより、聖霊の働きが必要なのです。
私たちの生き方のすべては、
内に住んで下さるキリストの命につながって、外にあらわれてくるもの。
私たちは、キリストを信じていると告白しながらも、知らず知らずのうちに自分の思いのままに生きてしまいます。
内なる人の声に、耳をふさぎ、自分の思いや計画が大きすぎて、気付かない事が多いです。
パウロは、内なる人が強められるようにと祈っています。
つまり、聖霊の助けによって、日々はっきりとキリストの存在を感じる生活になるようにと祈っているのです。
パウロは、「困難な時代になると人々は、自分を愛する者、金を愛する者、しかも信仰者であっても神よりも、自分を喜ばせるような生き方をしてしまう」と語っています(Ⅱテモテ3章1-5)
お金を持つというのが、どれぐらいがセーフで、どこからがアウトというのではなく、自分を喜ばせるような、お金に執着するような生き方をしないように・・・
私たちの生活は、何を信じるかによって決まります。つまらないものを信じていれば、つまらない生活となり、すばらしいものを信じていればすばらしい生活、一時の快楽や満足を追い求めれば、一時を追い求め続ける生活とになります。
私たちは、自分の大事なものを基準としています。それが物事を判断する尺度となっているのです。
友達を大切にする人は、友達を裏切っていないだろうか、傷つけていないだろうか、と考えますし。家族が大切な方は、家族を一番に考えます。
もし「この世の中は金次第」と思っていれば、すべはお金という尺度で測ってしまう生活になるのです。
やはり、自分の心をどこに置くかが、自分の生活や人生を左右するのです。
信仰に重きを置くのであれば、聖霊さまの助けが必要です。内なる声に耳を傾けれるように。
私は、この御言葉が好きです。
「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。(ピリピ4:11-12)」
聖書に、お金を愛してはいけないとあるからと、ギリギリの生活を自分に強いるのではなく、貧しさの中でも喜べ、また豊かさをも楽しめる。
「豊かさも楽しめる」とは、豊かであっても良いという事です。
お金に心を捕らわれなければ良いのです。
しかし、お金はなかなか難しい・・・だから聖霊さまに寄り頼むしか方法がないように思います。
聖霊さまに、お金についても整えられますように・・・と祈ります。
今日も、主の中で良き一日をお過ごしください!