47 イエスがまだ話しておられるうちに、見よ、十二弟子のひとりであるユダがやって来た。剣や棒を手にした大ぜいの群集もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、民の長老たちから差し向けられたものであった。
48 イエスを裏切る者は、彼らと合図を決めて、「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえるのだ」と言っておいた。
49 それで、彼はすぐにイエスに近づき、「先生。お元気で」と言って、口づけした。
50 イエスは彼に「友よ。何のために来たのですか」と言われた。そのとき、群集が来て、イエスに手をかけて捕らえた。
51 すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。
52 そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。
53 それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。
54 だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」
マタイ26:47-54
今日の御言葉。
12弟子の1人、ユダがイエスさまを裏切る場面です。
ユダと一緒に大ぜいの群集が剣や棒を手にしてやってきました。
イエスさまを捕えようと、大勢やってきた事を知り、剣をもって大祭司のしもべに撃ってかかり、耳を落とした弟子がいます。
それはペテロです。
ペテロはどうしてこのような事をしたのでしょうか?
目の前に尊敬する大好きな、イエスさまが捕まろうとしているのを目にしたからです。
イエスさまには罪がありませんでした。しかし死刑にしようと捕えに来た者たちがいるのです。
「主をお守りしたい!!」という一心で、剣を振るったのだと思います。
しかし主は、ペテロに「剣をもとに納めなさい。」と言われました。
そして、主は、耳を切り落とされたしもべの耳を癒すのです。
どうして、主は剣を治めなさい・・・「抵抗するのを辞めなさい」に言われたのでしょう?
主は、万軍の御使いをご自分の配下に置き、大勢の人たちを阻止する事が出来るお方です。
しかし、主はされるがまま、十字架にまでかかってしまうのです。
十字架に架かる事、一度死んで復活する事が、ご自分の使命であり、天の父の御心だとご存じだったからです。
ペテロは、主が目の前で捕まることに抵抗しました。
それは、主を愛していたから。お守りしたいから。死んで欲しくないから・・・
悪が迫って来たので、それに抵抗し戦っただけなのです。
しかし、ペテロのした事は、「主の御心が叶わないようにする事」だったのです。
主が歩かれる道を阻止してしまったのです。
愛のつもりの行動が、主の道を妨げる行動だったのです。
私たちも物事がうまく行かない時、
なんとかしようとして事をあれこれ対処しようとする時があります。
実は、それは主に反して戦っているかもしれません。
人は、心に剣を持っています。
誰かに傷付けられたら、仕返しをしようとする剣。
自分の願い通りに行かなかったり、自分が不幸だと感じたり、不満が積もったら出てくる剣。
自分の希望を叶えようと無理やり手に入れるための剣・・・
私たちが持つその剣は、「舌」「言葉」となって姿を現わします。
あたかも自分が、正しいかのように正当化して剣を振るうのです。
事が上手く行かない時、
立ち止まり、主の御心は何かを考え祈る時間を、自分に与えましょう。
自分の正当性だけを振りかざすのではなく、主の御心は何なのか。
自分の努力、実績で道を切り開こうとせず、主の計画は何なのか。
自分の目に映るもの、自分の判断、自分の天秤・・・
主に勝るものは何一つないのです・・・
今日も、主に祈り、御心を知る一日となりますように!