11 見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立って、ヨルダン川を渡ろうとしている。
12 今、部族ごとにひとりずつ、イスラエルの部族の中から十二人を選び出しなさい。
13 全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。」
14 民がヨルダン川を渡るために、天幕を発ったとき、契約の箱をかつぐ祭司たちは民の先頭にいた。
15 箱をかつぐ者がヨルダン川まで来て、箱をかつぐ祭司たちの足が水ぎわに浸ったとき、—ヨルダン川は刈り入れの間中、岸いっぱいにあるれるのだが—
16 上から流れ下る水はつっ立って、はるかかなたのツァレタンのそばにある町アダムのところで、せきをなして立ち、アラバの海、すなわち塩の海のほうに流れ下る水は完全にせきとめられた。民はエリコに面するところを渡った。
17 主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真ん中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。
ヨシュア3:11-17
今日の聖書の箇所。ヨシュアです。
モーセは、イスラエルの民を率いてエジプトを出て、約束の地「カナン」を目指します。
しかしモーセは、カナンにたどり着く前に亡くなったのです。そしてモーセを継いで指導者になったのがヨシュアなのです。
イスラエル人は、約束の地へ進んで行く為に、一つの困難に差しかかりました。それはヨルダン川を渡るということです。
主はヨシュアに「ヨルダン川を渡り、私がイスラエルの人々に与えようとしている土地カナンに向かいなさい。」と言われました。主の契約の箱を先頭にして、民はその後ろを進むように言われました。
15節を見ると「刈り入れの期間中」の出来事のようです。今の暦で言うと3月下旬~4月上旬で、大麦の収穫の時期。ヘルモン山からの雪解け水がガリラヤ湖に入りヨルダン川に流れ、水かさが最も増す時期だそうです。
想像してみて下さい。水かさが増し、流れが速い川です。そこを契約の箱を持つ者から順に渡るのです。
絶対に、川の流れに身体が持って行かれると思いませんか? 足場も滑りやすいでしょうし・・そのような川に入るのはとても怖さを覚えたと思います。
しかし、ヨルダン川の流れ下る水は、せき止められたのです。そして民たちも、契約の箱に続きヨルダン川を濡れずに渡る事が出来たのです。
いつ、川の水の流れが止まったのでしょうか?
流れが止まったので、祭司たちは川を渡ったのではないです。
契約の箱を持つ祭司たちの足の裏が、そのヨルダン川の水の中に入った時です。
この話で学ぶことが沢山あります。主からの私たちへのメッセージです。
「信仰とはこういうものだ」という事です。
目に見えるものを信じることではなく、目に見えなくても、主が約束してくださったことを信じることが信仰なのです。私たちが「信仰」を持つ時、主の御業が現されるのです。
私たちも信仰によって、一歩踏み出す者となりましょう!
また、普段、契約の箱は、隊列の中央に置かれていました。それには意味があり、「主がイスラエルの民の真ん中におられる」ことの象徴だったのです。
しかし、無理難題なヨルダン川を渡る時、契約の箱を先頭に立てています。そして民は契約の箱の後ろを進むように言われたのです。
これは、主が彼らに行くべき道を示すという意味があり、主は道を開かれると言う証です。
私たちが困難に差し掛かった時、主ご自身が先頭に立って、問題を解決してくださるのです。
それと、もう一つ、このヨシュアがヨルダン川を渡る話、「モーセが紅海を割る」話と似ていませんか?
どうして、主は同じような事をされたのでしょう?
モーセは偉大な指導者でした。偉大な人物の後の後継者って大変ですよね?
イスラエルの民、全体の前で、主がヨシュアを大いなる者とする為です。
主がモーセと共にいたように、ヨシュアとも同じ主が共にいることを、イスラエルの民が知るためなのです。
主って凄くないですか? されることがイチイチ、スマートというか。
「私はいつもあなた方の真ん中に存在してるよ。」
「困難があった時は私が先頭に立ち、道を切り開こう!」
「目に見える状況に左右されず、私を信じなさい。」
川の流れをせき止めるという奇跡を、民たちに目の当たりに経験させ、上の3つの教えだけでも十分じゃないですか?
主は、奇跡を通して民だけに語たられたのではなく、ヨシュアにも語られ、力を与えられたのです。
「あのモーセと同じ主が、ヨシュアにも共に居られる」という事を、民に証明し、ヨシュアにも証明したのです。「気をしっかり持ちなさい。モーセの神があなたと共に居る」と・・・
聖書って、読めば読むほど色々な意味に気付かされ、主の意図が少しづつ見てきます。
でも、多分、、、私たちが主の意図を全て悟る事は出来ないと思います。
このヨシュアの話にも、私が全く気付けていない主の計画や、メッセージがもっと含まれているんだろうな~と思います。
カナンの地へ行くようにと約束の地を与えれたのは、主です。
主が約束して下さったのです。しかし、主の約束というのは、聖書を見ると、待っていたら「棚ぼた式」に与えられるという事は少ないように思います。
約束が成就する為に、時にはいくつもの困難を乗り越えて行かなければならないのです。
しかし、いくつもの困難は、「徹底的に主に信頼し、主に従うこと」によって乗り越えられるのです!
主を信じ、水かさが増し流れが速いヨルダン川に、足を入れる者が主の約束の成就を見れたように・・・
今日も、目には見えない主に期待し歩みましょう!