民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。セラ
詩篇62:8
日々、記憶するべき「主からの命令」があります。
「明日の事まで思い悩むな」です。人間は、昔から、今現在に満足できず、今より先の事に心が先走る習性があるようです。
旧約時代、イスラエルの民がエジプトを脱出しました。 道中、食べ物に飢えた時、主は「マナ」という食べ物を与えました。その時、主はモーセに何と言われたでしょう?
「パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。(出エジプト16:4)」
「その日必要な分だけが与えられ、余ることも足りないこともなかった。しかし、ある人は、明日のためにと余分にとっておくとそれは腐った」と書かれています。
どうして、毎日、朝夕と二回も与えられたのでしょうか?
2日に1回で、一度に2日分下さってもいいのに。1週間分、まとめて下さっても良いのに。
「主を信頼する」という訓練をされたのです。必要な時に不足なく、必要な分だけ与えられるという事を体験し、記憶する為です。
人には、明日のことが分かりません。それは、明日を準備し備えてくださる神様を信頼するためなのだと思います。
被造物である私たちと、創造主である主。
創造主である主は、私たちを造られ、明日も作られる方です。
よちよち歩きの子どもが、親が道に迷わないか心配しないですよね。 子どもは道を知らなくても、どこに行くのか知らなくても平気です。自分の一番信頼できる親が手を引いて連れて行ってくれるから。子どもには、「この道で合ってるかな」「道中、トラブルに巻き込まれたらどうしよう」「お金は足りるかな・・」と言った「不安」は存在しないのです。
親を信頼しっきっているからです。
もし子どもが、常に心配し、「どの道を通って行くの?」「今日、雨は降らない? 念の為、傘を持って行ったら?」「途中、トラブルに巻き込まれたらどうしよう」「暑いから帽子とお水持って行ったら?」「お金は十分足りるだろうか・・」と、あれやこれやと、心配したらどうでしょう。
親は「大丈夫だから! お母さんが一緒に居てるでしょ! 心配いらないよ。何かあったとしてもおお母さんが守ってあげるから!」と言いますよね。もし、実際に何か問題が生じたら、全力で子どもを守ります。
親でさえ、自分の子どもにそのように出来るのに。主が、私たちが考える以上のことを出来ない訳がない。創造主である主と、私たちには無限の差があるからです。
親の立場になって、考えてみて下さい。
子どもとお出かけをする時、子どもに臨むことは何ですか?
親の手を離して、一人でワーッと走って行ったり、道中ずっと心配をし続けている子どもはどうですか?
しっかり手を握り、沢山おしゃべりしながらのお出かけの方が楽しいですよね。
しかも、主と私たちの人生のお出かけは、道中、沢山の誘惑が満ちているのです。罪が溢れているのです。
だったら、尚更、主の手をしっかり握り、主と共に歩むべきですよね。
「今」は決して永遠には続きません。今この瞬間味わっていることは、今だからこそ味わえるものなのです。
しかし、沢山の人は、「今」を生きず飛び越えて、「明日」しか見えていないのです。
明日を思い煩わず、また、過去に縛られてもいけません。
今注がれている、主の愛に目を止めて生きていく事が、幸せな人生の秘訣です。
今、この瞬間の人生の道が、辛い苦しいと感じる方もおられると思います。
主と手を繋いで歩く人生は、ハッピーな事ばかりではないからです。
辛く苦しい道も、主が共に歩んで居られる道なのです。その道を通り、主があなたに語りたい事があるんだと思います。
しかし、後に全ては益になるのです。
主が「明日の心配をするな」と言われているのですから、
今日も、主を信じて、主と共に歩みましょう!
「彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。(Ⅰペテロ2:6)」