人は生きていたように死んでいく【Ⅱテモテ4:6-8】

2022年

私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。

私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。

Ⅱテモテ4:6-8

 

私が、教会に通い始めたたころ耳にした言葉です。

「人は生きていたように死んでいく」

死に際と言うのは、それまでの人生の凝縮だそうです。

周りの人に感謝をしながら生きてきた人は、周りに感謝をしながら亡くなっていき、

不平不満を言いながら生きてきた人は、周りに不平不満を言いながら亡くなっていくそうです。

死を前に、取り繕う事は出来ないそうです。 その人の生きざまが、そのまま現れるそうです。

 

今日の御言葉は、

パウロが、地下牢から書いた手紙です。もうすぐ、ローマ皇帝ネロによって処刑されると分かっていて残した手紙です。

私たちは「死」をどのように受け止めているでしょうか?

多くの日本人にとって、死は悲しく不幸なもの、忌むべきものです。 なぜなら、すべてが終わってしまうからと考えるからです。 この世界から、自分の存在が消えて無くなってしまうと思うからです。

パウロは、死をどの様にとらえていたでしょうか?

パウロにとって死は、「肉体という地上の住処を離れ、天にある家で永遠に住むために出発する時」と言う風にとらえていたのです。

だから、死は悲しいことではなく、むしろ喜びの時であり、感謝の時、希望の時、出発の時だったのです。

パウロはここで、「私が世を去る時はすでに来ました。」と言っています。

この「去る」ということばは、農夫が一日の仕事を終えた牛やろばからくびきを外す時に使われた言葉です。一日の仕事を終えた牛やろばに、「お疲れさん」と言ってそれから解放してあげる時に使われた言葉だそうです。

パウロにとって、この世を去る時というのは、労苦から解放され、主のみもとに凱旋出来る状態であり、天の御国へ出発する時が来たと理解していたのです。

 

パウロは、自分の置かれた状況をしっかり理解していました。 もうすぐ打ち首にされるということです。パウロは「今や注ぎの供え物となります」と表現しています。

自分の過去についても「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。」と書いています。

そして自分の未来についても理解しているのです。「義の栄冠が私のために用意されているだけです。」

死を目の前にして、とても理性的に自分の過去、現在、未来を見ています。

パウロは、目先の困難な問題に心を奪われませんでした。

パウロが常に見ていたのは、目先ではなく、そのもっと先、もっと先のゴールをいつも目指し突き進んだのです。

パウロは、ゴールに期待感持っていました。 だから、今を乗り越えることができたのです。

私が死を目の前にした時、どの様な姿を見せるのか、考えると、、、怖いです。

今から、準備をしないといけないです。

今日も、主の中でしっかり生きる事ができますように。

主が与えて下さった使命を全うできますように!

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