「受難予告」を聞いた弟子たちの反応、知っていますか?【ルカ22:21-27】

2022年

しかし、見なさい。わたしを裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。

人の子は、定められたとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はわざわいです。」

そこで弟子たちは、そんなことをしようとしている者は、いったいこの中のだれなのかと、互いに議論をし始めた。

また、彼らの間には、この中でだれが一番偉いだろうかという議論も起こった。

すると、イエスは彼らに言われた。「異邦人の王たちは人々を支配し、また人々の上に権威を持つ者は守護者と呼ばれています。

だが、あなたがたは、それではいけません。あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。

食卓に着く人と給仕をする者と、どちらが偉いでしょう。むろん、食卓に着く人でしょう。しかしわたしは、あなたがたのうちにあって給仕する者のようにしています。

ルカ22:21-27

 

マルコの福音書を読むと・・・

イエスさまは、弟子たちに受難予告を、8章、9章、10章と、3回話しています。

3回とも、弟子たちは受難予告に余りピンと来ていませんでした。

イエスさまの受難予告の話が、分かっていなかっただけでなく、受難予告の後に、弟子がどう生きるかという話をしているのです。

8章では、イエスさまが受難の話をすると、ペテロはイエスさまを他の弟子たちから離し脇にお連れしていさめた。と書いてあります。もちろんペテロは人間的に主の無事を願ってだと思いますが。自分の知るキリスト像と違うと思ったのです。

9章では、イエスさまが受難の話をされ、理解できなかったが、またその意味を尋ねるのを恐れていた。 イエスさまは受難を受けられるため、弟子たちとイスラエルに向かっていた。その道中、弟子たちは、イエスさまが地上の王国を造ったら、自分たちが支配階級になることを願い、「自分たちの中で誰が一番偉いか」を論じていた。

10章では、受難予告を話している所に、ヤコブとヨハネが、イエスさまに「先生。私たちの頼み事をかなえて下さい」と来たのです。続けて「あなたの栄光の座で、ひとりを先生の右に、ひとりを左にすわらせてください。」と言ったのです。(マタイの福音書を見ると、母親のサロメも一緒です。サロメは「イエスさまの母マリヤの姉」ですので、ヤコブとヨハネは、イエスさまのいとこになります。)

イエスさまが、十字架に架かる為、イスラエルに向かう道中で、弟子たちはこのような話をしていたのです。

イエスさまの受難に向けての道中、弟子たちは、自分の将来の出世を約束して欲しいという気持ちだったようです。

そして今日の聖書の個所。

イエスさまは、十字架に架かる前日に、弟子たちと共に食事をされた時です。

「今、私を裏切る者の手が、わたしとともに食卓にあります。人の子は、定められたとおりに去って行きます。」と、明日起こる十字架の死について話されました。

弟子たちは、何の話をされているのか良く分からず、「この中で一体そんなことをするなんて誰が・・」と話します。

その後、弟子たちは何の話をしたか知っていますか?

十字架の死の話を聞いた後、弟子たちは、「この中で、誰が一番偉いか」と議論しあっていました。

「議論」と書いてあるので、軽く話すというよりは、熱く話していたのでしょう。今回が初めての話題ではないですし・・

イエスさまは、どのような思いで弟子たちを見られていたのか・・・想像するだけで心が痛みます。

イエスさまは、受難への道を歩んでおられる中、弟子たちは、イエスさまの横に居ながら、自己実現の道を歩んでいたのです。

聖書は不思議な書物ですよね。

良いも悪いも、すべてあからさまに綴られています。弟子たちの醜態、失敗、未熟さを、そのまま告です。

それは、今の私たちの姿であると、教えられているからです。

未熟で自分の事しか考え考えられない弟子たちに、主は最期まで、くり返し神の愛を教えられ、十字架に架かられたのです。

弟子たちと同じで私たちも、人の目、人の評価が気になります。自分が、仕えるものではなく、仕えられるものになる事を望んでいます。自分は、貧しい生活ではなく、豊かな生活を望んでいるのです。

しかし、主の教えは、私たちが潜在的の望んでいる姿とは反対でした。

「あなたがたの間で一番偉い人は一番年の若い者のようになりなさい。また、治める人は仕える人のようでありなさい。」と言われています。

イエスさまが、そうされたからです。イエスさまが、王として権力を振るったわけではなくて、イエスさま自身が貧しく謙遜な生き方をされたので、弟子である私たちも、そのように生きることが一番のことである、ということです。

これは、大変難しいです・・・

常に、日々の生活の中で、何度も自分に問いかける必要があります。

私たちが、右大臣、左大臣とまでは、思わないとしても、やはり、世間並みの生き方とか、物質的なことにおいても、人の評価とか、世間的なものにとらわれている所が多いと思います。

イエスさまが、私たちに望んでいる生き方は、そうではなくて、仕える者、一番下の者、低い者になれということを言われています。

 

今日は、自分の生き方、自分の主に対する姿勢、仕える者になる、、

黙想しながら過ごしたいと思います!

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