肩の力を抜いて生きる【Ⅰコリント3:4-9】

2022年

ある人が、「私はパウロにつく」と言えば、別の人は、「私はアポロに」と言う。そういうことでは、あなたがたは、ただの人たちではありませんか。

5 アポロとは何でしょう。パウロとは何でしょう。あなたがたが信仰に入るために用いられたしもべであって、主がおのおのに授けられたとおりのことをしたのです。

6 私が植えて、アポロが水を注ぎました。しかし、成長させたのは神です。

7 それで、たいせつなのは、植える者でも水を注ぐ者でもありません。成長させてくださる神なのです。

8 植える者と水を注ぐ者は、一つですが、それぞれ自分自身の働きに従って自分自身の報酬を受けるのです。

9 私たちは神の協力者であり、あなたがたは神の畑、神の建物です。

Ⅰコリント3:4-9

 

今日の聖書の箇所は、パウロが、コリントの教会に宛てて記された手紙です。ここではパウロ、アポロが出てきます。

パウロは熱心なユダヤ教徒で、キリスト教に改宗することを赦せず、キリスト教徒を捕まえ、縛り上げていました。しかし、そのパウロ自身が、イエス・キリストに出会い、キリスト教徒と変えられました。 パウロは主に大きく用いられ、伝道旅行にも行きましたし、コリントの教会をはじめ、さまざまな教会を作りました。そして様々な教会に手紙を書きました。

アポロもユダヤ人で、聖書に詳しく、イエス様のことを熱心に、そして正確に伝えていた人物です。特にアポロは「雄弁者」であったとされ、話がとても上手でした。パウロがコリントの教会を作った後に、アポロがコリントの教会にきて、イエス様の事を伝えました。

パウロがコリントの教会を作り、その後アポロがこのコリントの教会の指導者として、教会を育てていったのです。 これがパウロとアポロ、そしてコリントの教会の関係です。

そして、当時のコリントの教会では創立者パウロと、指導者アポロのどちらにつくか、どちらが正しいのかと、言い争っていたのです。

「パウロは植え」「アポロは水を注いだ」。農作物において、植える人がいなければ、水を注ぐ作物自体が存在しません。 また水がなくては、作物は直ぐに枯れてしまうのです。この争いがどれほど意味のないことなのかを教えているのです。

一番大事なことは、「成長させるのは神である」という事。私たちは直ぐにこの事実を忘れてしまいます。 この農作物の「畑の所有者」は「主」なのです。畑を作る者、畑で働く者も「主のもの」なのです。

この主の存在を忘れて、自分の力で一生懸命生きていこうと頑張っていくことがあります。

そして、思う通りに進まないと、自分の限界によって打ちのめされるのです。自分の無力さを感じるのです。子育てにおいても、人間関係においても、自分の弱さに、失望し心を痛めたりします。

常に、主の存在を認識し、主が成長させて下さると信じる事が出来れば、肩の力を抜いて、生きることができるようになるのです。

私たちは、与えられた賜物を用い、与えられた仕事をするだけなのです。自分で実を結ばそうと躍起になる必要はないのです。

 

私たちは預けられた自分の命、子どもの命、この世界、自然など、すべての創られしものを、できる限りの知恵と力を持って、大切にする必要はあります。そして、そのうえで、私たちは、最後に、すべてを主に委ねることが許されているのです。

私たちは生きるも死ぬも、最後には、神様にお預けすることが許されているのです。最後に、「成長させてくださるのは神様」だと委ねることが許されているのです。

私たちには、生命の神秘という限界を超えることはできないのです。そして同時にそこまでの責任は持つことができない存在です。 私たち人間には、そのような権限を与えれていないからです。

私たちは、神様によって命を与えられ、生かされて、成長させられている。

私たちが最後にできることは、この御言葉に信頼すること、そして従うことです。

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