1 さばいてはいけません。さばかれないためです。
2 あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
4 兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
5 偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。
マタイ7:1-5
周りとの人間関係はどうですか?
問題なく良好でしょうか? もしくは余り会いたくない人が居たりしますか?
会えば、心がかき乱され、会えばストレス。 イライラしたり、腹立たしく感じたり、ちょっとした一言さえも許せなく感じてしまったりする人はいますか?
人間関係はうまくいかないと大きなストレスの一つとなりますよね。夫婦や家族なら尚更です。
どうして、人間関係に悩むのでしょうか?
単にその人とは馬が合わない(価値観や考え方)から起こる事なのでしょうか?
私たちは、知らないうちに誰もが「基準」を持ってしまっています。生きてきた過程で、いい意味でもよくない意味でも培ってきた考え方です。
人間は、年を重ねれば、思考や行動、判断力など経験と共に、心が柔軟になり、より良い選択を出来るように思いがちですが、実際はそうとも限りません。 時代と共に、考え方も使う言葉も変わったりします。自分の思考や判断力が、時代とズレがある事もあります。 また心の状態は、年と共に良い方向に成長するとは限らないからです。
また私たちが持ってしまっている「基準」は「裁き」を引き起こしやすいです。
「私だったら、そんな風には言わないのに」「もっと〇〇な態度をとれないものか?」「あの人はいつも・・・」「どうしてあんな事をするんだろう?」「信じられない、普通とは違う」「誰だってそう思うはず」「常識的に考えたら・・・」「また始まった・・・」「あの人は〇〇するに決まってる」
いつも部屋が散らかってしまっている人を見て、「だらしない」と思ってしまったりします。本当の事実は「整理整頓が苦手な人」です。 しかし自分の基準に照らし合わせ、散らかりすぎな現状を見て事実以上の感情が働き「だらしない人」と思ってしまうのです。
事実を超えたマイナスな感情は「裁き」です。
私たちは、この感情の動きに「裁いている」という認識がない事が多いです。 気付かないうちに、人を裁いているのです。
事実を超えたマイナスな感情を持って人と接すると、そこからは良い人間関係は生まれません。
会うのが嫌になりますし、一言一言がストレスになってしまいます。以心伝心でその気持ちは相手も察します。
どうしたらいいのでしょうか?
人から裁かれない方法を探すのではなく、自分が人を裁かないようにするべきです。
聖書には何と書いているでしょうか?
「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり預言者です。(マタイ7:12)」
裁きの目で自分を見られたくない、判断されたくないので、まず私たちが、相手をそのように判断しないようにするべきなのです。
しかし、私たちが持ってしまっている、基準、判断、感情などを排除して生きて行くのは難しいです。かなり自問自答する必要があります。 しかし、このような見方から解放される時、私たちは人間関係のストレスから解放されるのです。
ですから、私たちが何の偏見もなく、ありのままの事実を受け止めれるように、主から力を得る必要があります。
「主が見ている様に、私も目の前の人を見る事が出来ますように。」という祈りが必要です。
「主の思いが私の思いとなりますように」
しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(Ⅰヨハネ:)