22 モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。
23 彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。
24 民はモーセにつぶやいて、「私たちは何を飲んだらよいのですか」と言った。
25 モーセは主に叫んだ。すると、主は、彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。その所で主は彼に、おきてと定めを授け、その所で彼を試みられた。
出エジプト15:22-25
イスラエルの民が、主の御業によって、紅海を渡りエジプトから去ることが出来た話です。
イスラエル人は、勝利を与えてくださった主に賛美の歌を歌い、主を褒めたたえました。その後、荒野の旅が始まりました。彼らはシュルの荒野に出て行き、そこに3日間、彷徨いました。彼らはすぐにつぶやいたのです。彼らには水がなかったからです。やっとの思いで見つけた水は苦くて飲めなかったのです。
3日前に喜び踊った民は、モーセに対してつぶやいたのです。
3日前のイスラエルの民は、紅海の奇跡からを体験し、心から感謝が溢れ、また主に信頼心を抱いていました。
しかしこのような「のど元過ぎれば熱さ忘れる」態度は、イスラエルの民だけではないのです。
私たちも全く同じです。
物事が順調に進んでいる時は、主を信頼します。主への感謝と喜びが溢れでるのです。
このタイプの信頼心は、感謝と喜びの湧き起こりは簡単です。しかし、物事が上手く行かなくなると、主への信頼心・感謝・喜びは、あっという間に、そんな思いもなかったかのように心が冷めてしまうのです。
心はすっかり冷めてしまい、それだけでなく、不平・疑心心まで生じてしまいます。
私たちは、このような自分の必要が満たされた時だけの信仰心・・・
何度も経験していないでしょうか?
不安定な信仰生活を繰り返し、習慣化しているのです。すぐに私たちの口は、不平が出るのです。
このような習慣的なつぶやきは、祝福を失い、迷い・孤独を引き付けるのです。
信仰は選択の繰り返しです。
意図的に主の信頼を選択するか、それとも不平不満な反抗心を持つか。
主への信頼は、一度の選択ではないのです。 日々、瞬間瞬間で選び取るものです。