1 さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」
2 女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。
3 しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」
4 そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
5 あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
6 そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。
エバが蛇の誘惑に負ける話です。
どうして、エバは蛇(サタン)の誘惑に負けたのでしょうか?
主はアダムに「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」と言われていました。
蛇はエバに「”園にあるどの木からも取って食べるな”と言われたのか」と聞いています。
蛇は意図的にニュアンスを変えて、エバに質問をしたのです。
蛇はずる賢いです。鎌をかけたのです。エバの出方を探るために、わざと事実でないことを言ってエバ反応を見たのです。案の定、エバはその策略にハマってしまいます。
3節にある主の御言葉だけを答えず、エバは「それに触れてもいけない」という言葉を付け足して蛇に答えました。 蛇はエバが、善悪の知識の実に興味があり「触れてみたいと思っている」とエバの心理を見破ったのです。
エバはどうするべきだったでしょうか?
自分の言葉を足さずに、主の言葉だけを答えれば良かったのです。
第一に、蛇(誘惑)を相手にしないのが一番賢い選択です。
主が「善悪の知識の木」を禁止していのたですから、それには人一倍敏感になるべきでした。
私たちは自分の力で罪に勝つことは難しいのです。
ですから、狡猾なサタンと戦おうとせず、「罪」だと少しでも気になった時点で、そこから離れるのが正解だと思います。
人間は誘惑には弱く、負けてしまうのです。
だから、誘惑を横に置いて「主よ、私が誘惑に負けませんように」と祈るのはおかしな祈りです。
エバは自分の欲望をサタンに漏らしてしまった後は、
その実は食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましく、エバの目に映っているのです。
「サタンでさえ光の御使いに変装するのです。(第2コリント11:15)」とあります。
つまり、私たちが気をつけなければいけないのは、魅力的なものなのです。
見た目に良いもの、好ましいもの、自分が正しいと思っているもの、実際はそうではないのに、美しく見せるのがサタンの仕業なのです。
主はアダムとエバに沢山の良いものを与えれていました。それは決して尽きる事がなくアダムとエバを満足させるものばかりでした。
しかし、エバは関心を持ってはいけない、一つの果実に集中してしまったのです。
どうしてでしょうか?
感謝が足らなかったのかもしれません。数える事が出来ないほどの物を受け取りながら、それが当たり前に存在するかのように思ってしまっていたのかもしれません。
私たちも問題が生じると、解決するまで、徹底的に原因を追究し問題解決に集中します。その間、与えられているものは(例えば、今日の糧であったり、健康であったり)、当たり前となりそこには意識は行かず、見えてても見えない状態です。与えられているものに対しては、感謝とはかけ離れたところにいるのです。
問題に集中すればする程、手にしているものが当たり前となり感謝とはかけ離れるのです。
私たちも、エバと同じ間違いをしやすいのです。
ネガティブな関心事は、自分の心を曇らせ、主と距離を置いてしまうのです。
誘惑はキラキラして魅力的に見えるのです。
自分が特に気を付けたい弱さを認識しましょう。
お金には気を付けないと。異性には気を付ける。とか・・・
キラキラした誘惑からは、一刻も早くその場を離れて下さい。
離れるのを遅らすと、離れたくなくなります・・・