私たちの大祭司【へブル4:14-16】

2022年

 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

 

「今日も主と共に歩む一日となりますように」と祈りつつも、

主を忘れてしまっている瞬間が多々あります。

自分から主と共に歩むと言っておきながら、

実際に今日一日で主を思い出したのは何回? 〇分? 〇秒?だけ・・・?

一日の終わり、眠りにつく前にお祈りをしますが、

今日は何回、主を思い出したんだろうと考えると自分でもため息が出る時があります。

 

旧約聖書に時々「大祭司」という言葉が出てきます。

この時代のユダヤ人たちにはよく知られた言葉でした。「大祭司」とは、神と人を結びつける働きをする人のこと、仲介者のことです。

旧約聖書でなぜ大祭司が存在していたのかというと、罪ある人間は、聖なる、聖なる方の神に近づくことができなかったからです。ですから大祭司が、年に一度動物をほふり、契約の箱が置いてある至聖所に入り、その契約の箱に動物の血をふりかけてイスラエルの民の罪の贖いをしました。それによってイスラエルの民の罪は赦され、神の前に出ることができたのです。

 

へブル書では、神の御子イエスがこの大祭司であると言われています。ここから10章の終わりまでこの大祭司の話が続きます。

大祭司の話はヘブル書の中心的な内容であると言えます。

旧約聖書の時には、大祭司はアロンという人の家系から選ばれましたが、ここにはアロンではない、もっと偉大な大祭司がいて、この方によって私たちは大胆に神のみもとに出て行くことができるということを証明しようとしているのです。

それが主イエス・キリストなのです。

イエス様が十字架に架かり、私たちの大祭司になって下さったのです。

 

イエス様は、人間としてこの世にお生まれになりました。完全なる人間であり、完全なる神の子でした。

私たちがどのようなものなのか、ご存知です。私たちの弱さもご存知です。

 

私たちは日々主を仰ぎ見て、過ごせればいいですが、それは本当に難しいです。

完全に主だけを仰ぎ見るというのは出来ないと思います。この世に生きている限り。

世の中は、私たちが主から目を離すようにと私たちの注意をそらそうと仕組まれているからです。

私たちは自分の力でそれを打破するのは難しいです。

一日を振り返り、主とどれ程過ごせたのか・・・思い起こすことは大切だと思います。(思い起こす時間も主を考える時間になります。)

ただ、出来ない自分に凄くがっかり思ったり、情けなく思ったり、自分は出来ないという思いに自分が押し潰されないようにする必要はあります。

私たちが完全にできないという事は主もご存知です。

 

何が大切かと言うと、「今日も主と共に歩みたい!」という心。

それが心の底からの願いであるのかどうか。

日々の生活の中で主を思い出すことが出来るのは「勝利」なのです。

色々な世の中の妨げから主の名を呼べたのです。

主は私たちの弱さもご存知です。

今日も小さな勝利を手に入れましょう!

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