主こそ、私の受ける分です」と私のたましいは言う。それゆえ、私は主を待ち望む。
主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに。
主の救いを黙って待つのは良い。
哀歌3:24-26
哀歌の著者は、ユダで活躍した預言者エレミヤ。
彼は、バビロン捕囚によってユダが衰退し滅亡する時代の預言者。エレミヤは、ユダ国が宗教的悪の中にあり災いが起こると説いたが、人々の理解を得れなかった。最悪の状況の中でも最善の策を模索し続けるが、生涯人々に理解を得る事が出来なかった預言者。繊細な持ち主のエレミヤは苦悩のさいなまれ、それを「哀歌」に記している。時代に合わない先見者であり「涙の預言者」と呼ばれている。
エレミヤの「主を待ち望む」という心境だっただろうか。
先見者の預言者・・・ 孤独な人生であったと思う。主の御心、計画を知り、それを民に伝えたところで、理解されないだけでなく、変な目で見られ、おかしな者と見られただろうと思う。
哀歌を読むと、エレミヤの苦悩がつづられています。
しかし「主はいつくしみ深い。」「主の救いを黙って待つのは良い。」とも記しています。これは状況が好転したからそのような告白をしてるのではないのです。状況は変わらず、エレミヤの心のあり方が変わったのです。
エレミヤ程でなくても、私たちも主を待ち望むことが多いと思います。
時には何十年もの間、祈り続け主の導きを待つ事も多いです。
打てば響くように、主はどうして直ぐに助けてくれないのでしょうか?
どうして忍耐をもって待つ時間を与えられるのでしょうか?
どうして私たちは、誰もが分かるようなハッキリとした主からの答えや導きを得る事が出来ないのでしょうか?
一番多い理由は、祈りを途中でやめてしまう場合です。
しばらく懸命に祈り、主の答えを得れないと思い、諦めてしまうという場合が一番多いです。
または、答えを待てずに、主に祈ったのに答えてもらえないと判断をし、自分で行動してしまうのです。
次に、与えられているのに気付いていない場合も多々あります。
主の、導きや慈しみを感じられないのは、私たちが心の中でしゃべりすぎてうるさい時です。
疑いによる心のざわめきや、恐れの叫びを黙らせるべきです。
妬(ねた)みの声も、人を裁く声も静めなければなりません。
主からの導きを求める祈りと、心を静めるのは同時進行で行うべきです。
なぜならば、主の声は小さい声で語られることが多いからです。
主は私たちの信仰を見られます。
私たちがどれほど、主を信頼して信じるのかを見ておられるのです。