自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。
あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。
マタイ6:19-21
昔、あるクリスチャンの方が話されてるのを聞いた。
「あ~! お金持ちになって質素に生きたい!」
それを聞いた瞬間・・・「本当にそう! それ! 私もそうなりたい!!」
と心の中で叫んだ。 同時に違和感を感じた。
どうしてお金持ちになったのに「質素」生きようとするんだろう?
私がやっとお金持ちになったら、余裕がある生活を過ごしたいと思うのではなく、
どうして「質素」な生活を選ぶのだろう。
私が、お金持ちでありながら質素な生活を送っている姿を想像してみた。
経済的不安から解放され、お金があるという心の余裕ができる。心が豊かになる。
心を経済的問題から解放された上で「質素な生活」を楽しみたいという事だと思う。
これを話されたクリスチャンの方の生活は、もともと質素だったと思う。
この方の言葉に即座に同意した私の生活はもっと質素たっだ。
・・・だったら、同じではないか? 自分名義の銀行にお金があっても無くても、
今と同じ質素な生活を送ることになる。
・・・だったら、お金のある生活と無い生活、何が違うのだろう?
「心の安心感」だと思う。銀行にお金があれば、安心できる。
お金は、何かあった時の為の大きな安心材料である。
という事は・・・
クリスチャンの方も、私も、人生の安心感を「お金」から得ようとしている。
お金という人生の安心感を片手に握りながら、敬虔なクリスチャン風に信仰生活を送りたいと思っている。
聖書には「自分の宝は天に蓄えなさい。」と書かれている。
片手にお金を握りしめ、もう片方に聖書を持つことは不可能なのかもしれない。
「宝がある所に自分の心もある」と聖書に記されている・・