主は私を忘れられている?【ヨハネ3:16】

2024年

神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ヨハネ3:16

昨日、長男の信仰記録を書きました。

書き終わってから、こんな思いが生じました。

私は主に、

「主が長男の心を分かりやすく動かして下さい」と祈りました。

そして祈りの通り、分かりやすく長男の心を動かされたのです。

…凄く感謝…と思ったのです。

そして、主が長男を順調に導き、

成長させて下さっている様に感じ、

どことなく満足感を感じました。

そして、思ったのです…

私は今、どうして満足感を感じているんだろう…?

何に満足をしているんだろう…と考え…

主が順調に導いて下さっていると感じ、

私は満足感を覚えたのです。

もし、祈った通りに ‟分かりやすく、長男の心を動かされなかったら”…

主の導きを感じる事が出来ず、

私の目に、主の導きが感じなかったら?

長男が選んだものが上手く行かず、選んだことにより、

苦しみや、悲しみ、孤独や、また差別などを体験したとしたら?

私はどの様に感じるんだろう?

満足感とは反対に、

「主は、どうして導いて下さらないんだろう?」

「私たちを忘れているのではないか?」

と言う風に、主の導きが途絶えたように感じるはず…💦

私は、自分が感じる感情により、

主に感謝をしたり、

主が共に居て下さると感じたり、

主が人生を導いて下さっている、

主に愛されている…と満足を得ている。

しかし、反対に、

私が祈っても応答がなかったり、

ストレス、孤独、寂しさ、病、困難などに

苛まれたら…

私が感じる感情は、

主は私を忘れられた。

主は私を見捨てられた。

主は私には語って下さらない。

実は主は居られないのではないか?

という思いまでに発展するのです。

簡単に言えば、

思い通りにいけば「祝福された」と思い、

成功すれば「祈りに答えられた!」と思うのです。

反対に、困難に遭えば「これは何かの罰…?」

と思ってしまうのです。

自分の心が肯定的になれば、

私に対して、主の思いも肯定的だと思い、

自分の心が否定的であれば、

私に対して、主の思いも否定的だと思うのです。

という事は、

主の思いは、私が決めているのです。

私が感じる感情が、主の思いとなっているのです。

私が中心…

主は、私がどう感じようと同じなのです。

主は、私が主に愛されていると感じようと、

主は、私が主はいらっしゃらないのではないか?と感じようと

主は、私が私の事を忘れられているのではないか?と感じようと、

主は、私が見捨てられたのではないか?と感じようと…

主の思いは変わらないのです。

主が持たれる変わらない思いとは…

主は、ひとり子をお与えになったほどに、

私を愛されたという事です。

この事実は、永遠に何を持っても変わらないのです。

私がどう感じようと、変わらない。

私たちが、苦しく、辛く、孤独で、寂しく感じるのは、

苦しみを通して、私がもっと主を知る事を望まれている。

辛さを通して、もっと謙遜になる事を望まれている。

孤独を通して、主の偉大さを感じて欲しいと思われている。

寂しさを通して、主の愛に気付いて欲しいと思われている。

私が感じる感情が、主が持つ私への思いではない。

私は主を誤解している…という事に気付きました。

今日は、私が自分を中心とし、

主を誤解していた事を悔い改めよう…

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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