それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
マタイ26:39
家に帰ろうと駐輪場に自転車を停め、
エレベーターを乗ろうとしたら、
ご近所さんの年配の方が3人話をされてました。
挨拶をして話に加わろうかな…と思っていたら
どうやら「あそこの神社の百度参りがいい」という話。
「えーー? ダメダメ! 熱中症になりますよ~」とだけ
言って通り過ぎました。
百度参りって本当にする人いたのか…と思いつつ、
家に帰ってから調べてみました。
元々は、100日かけて祈りをする為に神社へ行く。
一日も欠かしてはならない。
一日行けなくなったら、また初めからスタート。
でもなかなか3カ月続けていくのは難しい…
急を要する願いもあるので、1日で100回周り祈るというのが
一般的になってきたそうです。
韓国には百度参りの様なものがないのか夫に聞いた所、
昔から「誠を尽くせば天も感動する。至誠(一念)天に通ず」という言葉があるようで、
真冬でも外でゴザの様なものを敷き、
器に水を入れ祈り続けるという事をしているそうです。
どちらも、自分の願いを神に届け願いを聞いて下さい!と言うもの。
病を癒して欲しい。子どもの学校合格。出世。子どもの結婚など
祈りは様々な様子。
何となく心情は分かります。
誠意を尽くして、自分の純粋な思いを分かって欲しい。
どれ程、この問題を解決したいか知って頂きたい。
そして私の願いを聞き入れて欲しい…!
このような気持ちだと思います。
私たちも神に祈り願いをする事は多いです。
しかし、百度参りとキリスト教の祈りは、
全く違うんだと改めて思いました。
百度参りは、神に誠意を尽くして、
自分の願いごとを言い続け、
自分の願いを叶えてもらうのが目的。
つまり、神の心を動かそうとする行為です。
自分が絶対者なのです。
キリスト教の祈りは、反対です。
人間ですから、こうなれば良いなという思いはあります。
しかし、主が望まれている祈りとは、
主の御心を求める祈りなのです。
だから、私たちが主の御心を知り、
私たちが心を変えるのです。
だから、簡単に言えば、
キリスト教の祈りは、半分は自分が話し、
半分は、主の語りかけを聞こうとするのです。
私たちが主を動かすことはないのです。(基本的に)
絶対者は主です。
百度参りは、自分の誠意を見せる為に何度も祈るのです。
キリスト教も、何度も何日も祈ります。
これは、自分の誠意を見せ、主に感動を与える為ではなく、
自分が「こうなれば良いな」という思いを、
祈りの中で一旦、主に預け、
主の御心を聞き、自分の心が自分の願いではなく
主の願っておられる結果へと、自分の心が変えられる為に
時間がかかるのです。
つまり…自分の自我を捨てる為の時間…
自分の思いや願いに固執し、
それが実現することだけを祈り求めるのではなく、
「私の思いではなく、ただあなたの御心が行われますように」と祈るのです。
私は自我が強いので、沢山の時間を要します💦
同じ「祈り」でも、
絶対者が自分なのか神なのか…
動くのは神なのか、自分なのか…
全く違います。
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)