エサウは言った。「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった。」また言った。「あなたは私のための祝福を残しておかれなかったのですか。」
イサクは答えてエサウに言った。「ああ、私は彼をおまえの主とし、彼のすべての兄弟を、しもべとして彼に与えた。また穀物と新しいぶどう酒で彼を養うようにした。それで、わが子よ。おまえのために、私はいったい何ができようか。」
エサウは父に言った。「お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください。」エサウは声をあげて泣いた。
父イサクは答えて彼に言った。「見よ。おまえの住む所では、地は肥えることなく、上から天の露もない。
おまえはおのれの剣によって生き、おまえの弟に仕えることになる。おまえが奮い立つならば、おまえは彼のくびきを、自分の首から解き捨てるであろう。」
創世記27:36-40
兄エサウと弟ヤコブ。
ヤコブは兄エサウの祝福を奪い取りました。
父イサクを騙し、兄を装って祝福を受け取ったのです。
私たちの目には、ヤコブがした事は「詐欺」です。
しかし、驚く事に、奪い取ったヤコブはを、
兄エサウを避けて、旅立ち長年苦労しました。
そして自分が兄を騙したように、ヤコブも叔父に騙されたりもしました。
しかし結果的には、主に大きな祝福を受けたのです。
エサウは自分の祝福が奪われたと知った時、泣いて父親に詰め寄りました。
「祝福は1つしかないのか」と。
父イサクは、エサウに対して「わが子よ。おまえの為に、私はいったい何ができようか」と言っています。
何となく私たちの感覚からすれば、
「取り消し!!!」となりそうです。
親を騙して「長子の権利の祝福」を奪うなんて…
白紙に戻せそうですが。
この場面から見て、一度発した言葉は戻せないようです。
私たちの世界での善悪の基準や常識と、
神さまの基準は違います。
この場面から「騙してでも祝福を求めよ」と
言っているのではないと思います。
多分…
ヤコブは祝福に対して「上渇き」を持っていたのです。
「どうしても…どうしても主の祝福が欲しい…!!」という思い。
それに反して、兄エサウは祝福を「軽んじて」いたのです。
ここから学ぶ事は、
「主の祝福」は切望するべき…
祝福? あってもいいし、無くても特に…という思いではダメなのです。
主の祝福に「貪欲」になるべきなんだと思います。
祝福はもらえれば「ラッキー」だというものではなく、
自分が生きて行く上で、絶対に絶対に必要だと
渇望するべきもの。
主は求める者に与えられる神です。
私の好きな御言葉の1つ、
あなたの口を 広くあけよ、
わたしはそれを 満みたそう。(詩編81:10b)
ツバメの雛は、餌を貰う為に大きな口を開け、大きな声で鳴きます。
餌を一回でも多く貰う為にです。
親は本能的に、大きな口を開き求める雛に餌をあげるのです。
親は、さっきはこの子にあげたから…次は…と考えないようです。
主の祝福も同じだと思います。
皆が同じだけの祝福を貰っていないと思います。
求める者に。
渇望する者に。
餌?どっちでもいいよ…という雛は、後回し…
もしくは貰えない可能性が高くなると思います。
主の祝福の必要性が感じられない場合…
それがどれ程素晴らしいものなのか、
体験がないからかもしれません。
どれ程素晴らしいものか、体験すれば、
求めずにはいられなくなると思います。
だから、まず
「主の素晴らしい祝福を、私が体験する事ができますように!!」と
祈り始めるのが良いと思います。
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)