主の祝福を受ける人とは【創世記27:36-40】

2024年

エサウは言った。「彼の名がヤコブというのも、このためか。二度までも私を押しのけてしまって。私の長子の権利を奪い取り、今また、私の祝福を奪い取ってしまった。」また言った。「あなたは私のための祝福を残しておかれなかったのですか。」

イサクは答えてエサウに言った。「ああ、私は彼をおまえの主とし、彼のすべての兄弟を、しもべとして彼に与えた。また穀物と新しいぶどう酒で彼を養うようにした。それで、わが子よ。おまえのために、私はいったい何ができようか。」

エサウは父に言った。「お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください。」エサウは声をあげて泣いた。

父イサクは答えて彼に言った。「見よ。おまえの住む所では、地は肥えることなく、上から天の露もない。

おまえはおのれの剣によって生き、おまえの弟に仕えることになる。おまえが奮い立つならば、おまえは彼のくびきを、自分の首から解き捨てるであろう。」

創世記27:36-40

兄エサウと弟ヤコブ。

ヤコブは兄エサウの祝福を奪い取りました。

父イサクを騙し、兄を装って祝福を受け取ったのです。

私たちの目には、ヤコブがした事は「詐欺」です。

しかし、驚く事に、奪い取ったヤコブはを、

兄エサウを避けて、旅立ち長年苦労しました。

そして自分が兄を騙したように、ヤコブも叔父に騙されたりもしました。

しかし結果的には、主に大きな祝福を受けたのです。

エサウは自分の祝福が奪われたと知った時、泣いて父親に詰め寄りました。

「祝福は1つしかないのか」と。

父イサクは、エサウに対して「わが子よ。おまえの為に、私はいったい何ができようか」と言っています。

何となく私たちの感覚からすれば、

「取り消し!!!」となりそうです。

親を騙して「長子の権利の祝福」を奪うなんて…

白紙に戻せそうですが。

この場面から見て、一度発した言葉は戻せないようです。

私たちの世界での善悪の基準や常識と、

神さまの基準は違います。

この場面から「騙してでも祝福を求めよ」と

言っているのではないと思います。

多分…

ヤコブは祝福に対して「上渇き」を持っていたのです。

「どうしても…どうしても主の祝福が欲しい…!!」という思い。

それに反して、兄エサウは祝福を「軽んじて」いたのです。

ここから学ぶ事は、

「主の祝福」は切望するべき…

祝福? あってもいいし、無くても特に…という思いではダメなのです。

主の祝福に「貪欲」になるべきなんだと思います。

祝福はもらえれば「ラッキー」だというものではなく、

自分が生きて行く上で、絶対に絶対に必要だと

渇望するべきもの。

主は求める者に与えられる神です。

私の好きな御言葉の1つ、

あなたの口を 広くあけよ、
わたしはそれを 満みたそう。(詩編81:10b)

ツバメの雛は、餌を貰う為に大きな口を開け、大きな声で鳴きます。

餌を一回でも多く貰う為にです。

親は本能的に、大きな口を開き求める雛に餌をあげるのです。

親は、さっきはこの子にあげたから…次は…と考えないようです。

主の祝福も同じだと思います。

皆が同じだけの祝福を貰っていないと思います。

求める者に。

渇望する者に。

餌?どっちでもいいよ…という雛は、後回し…

もしくは貰えない可能性が高くなると思います。

主の祝福の必要性が感じられない場合…

それがどれ程素晴らしいものなのか、

体験がないからかもしれません。

どれ程素晴らしいものか、体験すれば、

求めずにはいられなくなると思います。

だから、まず

「主の素晴らしい祝福を、私が体験する事ができますように!!」と

祈り始めるのが良いと思います。

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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