祈りってなんだろう…【ヨハネ15:7】

2024年

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。

ヨハネ15:7

病院にいると、対応に困る患者さんがいます。

先日も、患者のAさんがナースコールがあり行ってみると

「このコップ、新しいの持って来い」と言うのです。

入院セットについているプラスチック製のコップ。入院中は一人1つです。

それを説明しても「もう1週間も同じコップを使ってる!今すぐ新しいのと交換しろ!」と…

自分で動けない患者さんの場合、看護師さんか助手が患者さんの代わりに毎回洗っています。

これきっかけで暴言を言い続け…

そうこうしている内に、入院患者さんのなかで症状が急変する事があります。

「すみませんが、たった今、この病棟で急変された方が居らっしゃいます。命に係わる緊急ですので失礼します」と言って立ち去りますが、

直ぐにナースコールを押し続けます。私たちが部屋に行くまで。

一旦、落ち着いたと思っても、夜中に思い出したかのように怒り出し、

今すぐ病院の責任者を呼べ!と言い、

「今は夜中の2時です。責任者は病院にいません。明日の朝、対応させてもらいます」と言っても、

「今すぐ呼べ!来させろ!」と叫ぶのです。

また、朝イチで看護師さんがバイタルチェックに周ります。「どうして看護師は、毎回、自分の所に来る順番が遅いのか?」と大声で怒る人もいます。

「まず重症な人からチェックします。次は、前日に手術を受けた人です。手術後の検診前に事前にチェックし診察側に情報を送らないといけないのです。だから症状が安定している人が最後になってしまうのです。」

と言っても、何を説明しても、自分の思いが通らないと気が済まないのです。

また、患者さんがパジャマを汚してしまい、着替えを持って行き渡すと「それはお前の仕事だろ」と…

自分で十分着替え出来るにも関わらず、看護師さんに「お前がしろ!」と、着替えさせる患者さんもいます。

このような対応が難しい患者さんが、時々いるというのではなく、

1つの病棟ごとに常に数名ずついらっしゃるのです。

そして、ある程度「自立」している患者さんも多くいます。

自分の事は自分で出来る患者さんです。

私は自立の患者さんによく声をかけられます。そして色々な話をされるのを聞くのです。

自立の患者さんは、看護師さんたちに「ありがとう」と言い、無理な事や我を通そうとするような事は言いません。

しかし、私にコソッと話すのです。

「あの看護師さん…私のベッドの横の患者にはよく話するし、バイタルチェックの時間も長いのよ。でも私のチェックは直ぐ終えて次に行くの」

「あの看護師さんは、ちょっと愛想が足らない」

「あの看護師さんは、後で持ってくるといって、いつも遅い」

私の耳に、沢山の人の ″不満”、

″自分の願い通りになってくれない” ″どうしてこれ位の事、してくれないの?” ″自分は他の人より大切に扱われていない” という声が次から次へ。

大きな声で、自分の願い通りにならない!と怒り叫ぶ人もいますが、

小さい声で、不満を呟く人も本当に多いのです…

食事の配膳をしながら「〇〇さん、お食事ですよ~!」とテーブルに置くと

「食後の薬も持って来て!」と言われ、

「お薬は、皆の配膳が全て終わってから、看護師さんが順番に持って来てくれますよ」と言っても

「あーでも、ちょっとワシのは今に持って来て!」と言うのです。

そんな姿を見ながら

人間は、どうしても自分の願い通りにしたい!と言う思いが強くあるんだと感じました。

「どうしてこの通りにしてくれないんだろう」という思いが強く、

「ちょっとワシのだけ先に持って来てくれてもいいのに!」

どうして希望に沿えないかと説明しても、それはなかなか耳には入らない…

結局は「願いに沿ってもらえない事に対する不満」が積もって行き、

「この病院、どうなんだろ…」という思いにまで発達するのです。

ふと思ったのです。

これが人間の姿。

自分の思い通りにしたいという強い思いがあるのです。

神さまに対しても、私たちは同じような態度かもしれません。

神さま!お願い! 絶対に助けて欲しい…

絶対にこうなった方が良いに決まってるでしょ?

だってこうなって、そしてこうなったら、絶対に良いよ!

私は、こうなって欲しい…絶対に。

こんな思い一杯で祈っている事が多いかも…と思うと同時に

私たちはどんな時に祈っているだろうかと考えました。

まず、食事の前の祈り、礼拝の時の祈り…

これらはもしかしたら形式的な祈りになっているかもしれません。

どんな時に、懸命に祈っているだろうか、

どんな時に、祈らずにはいられなくなるだろうか、と考えた時、

自分がピンチになった時です。

大きな問題が生じた時、

病気になった時、

失敗した時、

仕事が上手く行かなくなった時、

凄く嫌な事が会った時、

困った時です。

そう思った時、

何故か、頭の中にアラジンの魔法のランプが思い浮かびました。

そしてその意味が直ぐに分かりました。

アラジンは何か頼み事がある時や、困った時に、ランプを擦り、願い事を叶えてもらっていました。

どこか、私たちの祈りも、このアラジンのランプのように思ってしまっているように感じたのです。

困った時、急いでランプを擦るように、主に祈り…

自分の願いが聞かれるように、必死に祈りに集中するのです。

しかし、自分の願いに沿わない場合、不満が生じ、不信になるのです。

祈りは、困った時にだけ呼び出す、アラジンのランプではない。

祈りは、困った時に私を助け出すものでもない。

祈りってなんだろう…

何のために祈るんだろう。

主の思いが自分の思いとなる為に。

主の願いが自分の願いとなるように。

主が愛したように、私たちが隣人を愛するように。

主が仕えられたように、私たちも仕える者となる為に。

主が謙遜に生きられたように、私たちも謙遜な人生をあゆめるように。

自分の心が主から離れず、

主と共に歩み、自分の中心に主を置く為にです。

もちろん、今日の御言葉にあるように、

「欲しいものを求めなさい。そうすればあなた方の為に叶える」と書いてあります。

しかしこれには条件があるのです。

「私が主の中に留まる」「主の御言葉が自分の中に留まる」ならば…です。

まず… 主の中に留まるという事に、集中していきたいと

改めて思いました…

「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」

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