私たちの存在意義【へブル11:6】

2024年

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

へブル11:6

病院でいると、時々凄く落ち込んでいる方が居られます。

「どうされました? 大丈夫ですか?」と声をかけると

昨日の検査の結果が悪く、

お医者さんに、手術できるかどうか分からないと言われた…

と答えられる方が居られます。

不安な気持ち、これからどうしたら良いのか、

本当に死んでしまうのか…という事を話されるのです。

そして多くの人は最後に

「自分の人生は一体なんだったんだろう」と言われます。

生きる意味を見いだせずに、もう終わってしまうんだろうか…

自分の人生はこれで良かったのだろうか。

もっと違う人生を歩むべきではなかったのか…

色々な思いが次から次へと起こってくるのです。

私も中学生位から、凄く悩みました。

自分は何の為に生きているのか。

生きる価値があるのか。

生き続ける為に、私の様な人が今日もご飯を食べて良いのか。

私ではなく、もっと食べて生きるべき人が多くいるのではないか。

自分なりの生きる意味を求め、考え続けました。

多分誰もが、この様に考えた事があるはずです。

多くの人が考え、多くの人が答えを見つけれずにいると思います。

何故、生きるのか。

生きる目的。

誰もが昔々から考えているのに、

どうして見つけられないのか…

答えを自分の中から探そうとするからだと思います。

自分を探り、見つけようとするから…

自分の中から出てくる答えは、

自分だけの目標かもしれません。

人間の根本的存在意義ではないと思います。

私たちは…神によって創造されました。

偶然に偶然が重なって生命が誕生したのではないのです。

偶然に人間が誕生したのであれば、私たちの命には意味はないのです。

偶然には、意味を持たないからです。

私たちが何かを作ろうとする時、

目的を持って造ります。

座って休めるイスを作ろう。と考え、

休むのに心地よいイスを作成するのです。

作られたイスが、自ら自分の存在意義を持つのではなく…

作成者側が、存在意義、目的を持っているのです。

では、神さまはどうして人間を造られたのでしょうか。

私たちがいないと困るのでしょうか。

私たちに何かをさせようと大量に造られたのでしょうか。

神さまは、私たちを喜びとされているのです。

私たちが、神さまの喜び…

喜ばれるような事をしているだろうか…と思うかもしれません。

生まれた子どもを見て、親はどう思うでしょうか。

健全な親であれば、

「しっかり育てて、私たちの老後の世話をしてもらおう」とは考えないはず。

「この子を通して沢山稼いでもらおう」

などとも思わないはずです。

ただただ、存在している事が嬉しいのです。

小さな小さな子どもが、私の顔を見てにこっと笑えば、本当に可愛いのです。

しかし、小さな子どもが自分を親と認めず、

他の大人について行けば、親はどうでしょう。

親は子どもが自分のもとで存在し、

自分とコミュニケーションを取り、

子どもを愛し、子どもも親を愛し信頼する事を望むのです。

天の父も同じなのです。

私たちが主のもとに留まり、主と関係を持つ事を望まれているのです。

主との関係を深める事を「礼拝」と言います。

礼拝を通し、

主が私たちを造られた目的や、

父の愛を私たちが十分に受け取る事、

そして、私たちが主を心から信頼し愛する事。

この愛の関係を築くことが、私たちが存在する意味なのです。

どの様な時にも、主を認め歩む。

どの様な状況であっても、主を信頼し歩む。

どの様な瞬間でも、主を愛する。

これは「信仰」です。

信仰なしに主は喜ばれないと聖書に書かれています。

日々、主との時間を大切に、第一にして行きたいです!

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」(ブログ2023.04.28~)

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