「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。マタイ22:36-39
昨日長男からLINEがあり
「3月になり新学期が始まり、今日は、大学で3日間ある″修練会(リバイバル礼拝?)”の最終日。
神さまとの良い時間となるようにお祈りお願いします」と書いてありました。
韓国は学校が3月から始まるのです。
今月から3回生の始まりです。
神学大学は学期が始まる度に、数日間、朝夕と礼拝が続くのです。
毎回、凄く恵まれるようです。
そして高校生の次男。
週末はいつも大忙しです。
金曜日に学校帰りに教会へ行き、金曜礼拝の楽器の奉仕をします。
そして土曜日も学校帰りに、日曜日の中高生の礼拝の賛美チームの練習。
そして今日は夜に大人の特別礼拝があり、楽器で奉仕をしています。
そして、主日は朝から大人の礼拝で楽器の奉仕、午後から中高生の礼拝です。
昨日、礼拝を終え家に帰って来たと夜12時前にLINEがありました。(私は夜勤中)
そして「今日の礼拝、バリ良かった! わし、生まれ変わったわ!」
「マジで涙と鼻水でどろどろよ」と。
「心に刺さるメッセージで、何か生まれ変わったと感じた!!」
「明日の夜も、特別礼拝があって、今日説教してくれた先生がメッセージして下さるから、スッゴク楽しみ!」
と書いてありました。
そして今日、「今日の礼拝楽しみ! 行ってきます! 神さまとの良い時間になるように祈ってて!」とありました。
2人のLINEを読んで、ハッとしました。
私は今日、神さまに何を祈り、何を求めたか…と考えさせられました。
私は今朝目覚めた時、午前中に聖書を読む時、仕事に行く電車の中、歩いている道中、
仕事をしている時、仕事の休憩中…祈りました。
しかし、その祈りの殆どが「願い」なのです。
「神さま、この問題どうしたら良いでしょうか(教えて下さい)」
「〇〇さんとその家族を救ってください」
「〇〇さんの心の傷に触れて下さい…」
「今日も、あの神社の方々が自然を通し、季節の移り変わりを感じ、主の存在を感じる事ができます様に」
「私たちにあの土地を与えて下さい」
「今日も、会う患者さんたち看護婦さんたちと、良き関係を持つ事ができますように。私が必要な事を話す事ができますように」
などなど…沢山の事を祈りますが、
殆どが「願い」なのです。
「神さまお願い! どうしたらいいのか教えて!」
「神さまお願い! あの家族が救われるように助けて!」
「神さまお願い! 私が必要な事だけを人に伝える事ができるように守って!」
…主と私の関係が…
私が一方的に願いを伝える関係だったのです。
私たちが主に願いを求めるのがいけない行動ではないです。
しかし、主が本当に望んでいる私との関係…
なんだろう…と思った時に思い出したのが、今日の御言葉です。
『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。
隣人をあなた自身のように愛せよ』
主に対して、私が願いを申し上げる対象ではなく、
愛する対象とするのが、一番主が望まれているのです。
愛する関係…
私たちは愛する人が出来た時、
自分の願いごとばかりを相手に話をしません。
愛する人に何を話するでしょうか。
相手に愛を伝える事はもちろんですが、
相手がどのような人であるのか、何を考えているのか、を知りたいと思うし、
自分がどういう人で何を考えているのか、知って欲しいと思うのではないでしょうか。
これは異性だけでなく、同性でも同じ。
仲の良い良き関係を築くために、
互いの事について知ろうとします。
そう思った時に、
私は、主について知ろう。私の知らない側面の主が沢山あるはず…
しかし、主がどういったお方なのかをもっと知ろうとするより、
「お願い」について話す方が、遥かに多いのです。
もし、私たちの愛する相手が、私の事を知ろうとはせず、お願いばかりを口にしたら…
愛は冷めてくると思うし、うんざりしてしまうかもしれません。
私たちの主は、願い事ばかりする私たちに、うんざりはされていないかもしれませんが、
主について知ろうとしない私たちに、
寂しさを覚えておられるかもしれません。
鹿が谷川の流れを慕いあえぐように…
私たちの魂は求めるべき…
生きる者にとって「水」は無くてはならないもの。
水が無くなれば、私たちの命も尽きるのです。
喉が渇けば渇く程、一刻も早く体内に水を補給したいと思います。
それが出来ない状況であれば、一層その気持ちが強くなります。
自分の命が乾ききらないように。
潤いを得たいのです。
このような思いで主を知りたい…
主がどういったお方なのか、
主が私にどの様な計画をもっておられるのか、
主の御心を知りたい、
主の思いが私の思いとなるように。
主の御心で、私も隣人(世の中)を見る事がでいるように。
集会に参加して、礼拝を捧げるだけが、主を知っていくものではないのです。
日々の聖書通読や、祈り、賛美、生活そのものが「礼拝」です。
主を自分の中心とし生きて行く事が「礼拝」なのです。
主を知っていき、主を中心として生きていく事ができますように…!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」