多くの奇跡を見逃してしまう私たち【ヨハネ2:1-10】

2024年

それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。
ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係がいがあるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」
さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、―しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた―彼は、花婿を呼んで、
言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」

ヨハネ2:1-10

今日の聖書の箇所は「カナの婚礼」です。

結婚式で、なくてはならない大切なぶどう酒が底をついたのです。

イエスさまは「水がめに水を満たしなさい」と言われたのです。

手伝いの人たちは、かめの縁まで水を一杯にしたのです。

すると水がぶどう酒に変わったのです。

イエスさまが言われた通りに従った手伝いの人たちは、奇跡を目にする事が出来たのです。

この結婚式には沢山の人がいました。

そしてその婚礼に集まった沢山の人たちは、

主の奇跡のただ中にいる事ができ、

奇跡のぶどう酒を口にする事ができたのです。

しかし…

体験出来たにも関わらず、それが「奇跡」だとは分からずにいたのです。

本当の意味で主の奇跡を体験できたのは、手伝いの人たちだけです。

これには大きな差があります。

多くの人は、驚く程、凄く美味しいワインを飲んだにすぎないのです。

時間が経っても「あの時のワインは美味しかったな~」という記憶しか残らないのです。

しかし、手伝いの人たちはどう感じたでしょうか。

結婚式なのに、ぶどう酒がなくなるという最大のピンチに、

1人の人物が、水をぶどう酒に変えたのです。

しかも、とびっきり美味しいぶどう酒に…

この手伝いの人たちについての、後の記録はありませんが…

この体験は、彼らの人生の大きな転換期となったのではないでしょうか。

彼らにとって、イエスさまに出会ったのがこの時が初見だとしたら…

結婚式が終わった後にも、イエスさまは存在されたのですから、

イエスさまに注目したのではないでしょうか。

あの方は一体どういう方なんだろう…

イエスさまの一言一言に心が動かされ、信仰を持つ事が出来たのではないかと思います。

主の奇跡のただ中にいても、それが何処から来たのか悟る事が出来ない人が多いのです。

私たちの今の世界でも同じことが起こっていると思います。

私たちが住むこの世界、

沢山の奇跡があるのです。

全てが主が造られた作品なのです。

秩序を持ち、太陽が東から上がり西に沈める。

地球が太陽の周りをまわり、夜と昼を造られたのです。

地球は丸いのに、私たちは重力という力によって地球に立つことが出来ているのです。

幾何学的で美しい雪の結晶は、同じ形が存在しません。

私たちが雪の結晶をネットやテレビで目にしたら、

主を信じる者は「主の創造力は、限界がなく計り知れない…」と、主の創造の偉大さを感じます。

しかし、それを主が造られたものだと知らない人は、

雪の結晶をみて「凄っごくキレイ!!」とだけ感じるのではないでしょうか。

世話役も結婚式に参加した人達は、奇跡のぶどう酒を飲む事はできましたが、

それが何処から来たのか知らなかったので、

「凄っごく美味しい!!」とだけ感じたのです。

つまり、目の前に奇跡が行われていても、大半の人はそれを奇跡だと認識出来なかったのです。

奇跡を体験出来た人は、どのような人でしょうか。

主に仕え従った者。

主を信頼した者。

主が示された通りに行動した者。

主の御言葉を受け入れた者。

自分の常識や考えで判断しない者。

だと言えると思います。

しかし、主に従うという事は、時は簡単そうで簡単なことではない事もあるようです。

かめに水を入れるという事は簡単なようですが、

かめの大きさは80~120ℓでした。それが6つあったのです。

という事は、500~700キロの水を汲んだのです。

そしてその水で一杯にしたかめを、世話役がいる所まで運んだのです💦

…もし、私が手伝いの人だったら…

「主よ。水を入れてどうするのですか?」

「水を入れる事に意味がありますか?」

「これは大変な労働です。理由を教えて下さい。この労働に意味があるのであれば、従います」

と言ってしまうように思います💦

主が、「〇〇しなさい」という事に対して、

「まず、それをする理由は? その理由に正当性があれば、やりましょう」と言う思いが働いてしまいます。

主の示しに対して、私がそれをする価値があるかどうかを判断しようとするのです。

ここにいる手伝いの人たちは、

従ったのです。

自分の常識や考えで、これはするに値することなのか…という考えをせず、

大量の水を入れ、重すぎるかめを運んだのです。

すると主の奇跡を体験できたのです。

どうしたら、主の奇跡を見過ごさないのでしょうか。

普通の結婚式では、始めに良いぶどう酒を出し、十分飲んだ後に、悪いぶどう酒を出すのが普通だと書いてあります。

普通ではない事が起きたのです。

もしも、ぶどう酒を飲んだ人が「こんなに美味しいぶどう酒は飲んだことはない! どこから手に入れたのですか?」と聞けば、

水がぶどう酒に変わったんだという事実を知れたのではないでしょうか。

「凄く美味しい !」で終えず、

今、目の前の現状を、深く知ろうとする言動が大切なのかもしれません。

聖書には、神は海や空や星を見て、神を知るようにヨブに命じています(ヨブ38-39章)。

また、イエスさまは「空の鳥」や「野の草」を見て、神の守りに気付きなさいと言われています(マタ6:25-30)

自然を通して主が語っておられる。

主の働き、主の奇跡、主の恵みにアンテナを張り敏感になりたいです。

「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」

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