すると、彼らに答えて言われた。「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」そこで弟子たちは言った。「私たちが出かけて行って、二百デナリもんおパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか。」
マルコ6:37
5つのパンと2匹の魚…
ヨハネ6:5を読むと、「イエスは、ピリポをためして」とあります。
主が私たちを時々テストされるのが分かります。
しかもテストの内容は、かなり難題…
「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」
もし、こんなテストを出されたら、私なら何て答えるだろう…と考えました。
多分、ピリポと同じ…💦
ピリポは人々を見渡し「200デナリのパンが必要」と判断しました。
ちなみに、200デナリとは、平均的な労働者の約半年分の賃金に相当するそうです。
アンデレは、群衆から食べ物を探しだし、「5つのパンと2匹の魚」を見つけました。
私たちが出来る限界がここまでだと思いませんか?
「あなたがたで、あの人たちに何か食べる物を上げなさい。」と言われたら、
まず考えるのは、購入。どこから買えるか。いくらかかるか。
もしかしたら、一人ぐらい商人がおり大量に食べ物を持っていたりしないだろうか…という発想で、群衆に聞きまくる。
私たちは、これ以外に方法が思いつかないように思います…
これが私たちの限界。
現実の世界で、常識的な発想。自分で考えた結果、
日が暮れ暗くなる前に群衆を解散させ、めいめいで自分の食料を確保する事が一番良い方法。
自分で与えると言うのであれば、購入。しかしそんな大金も、購入できるパンもありません。
群衆の中で見つけた食べ物は、
わずかな少年のお弁当一つだったのです。
弟子たちは、このテストを受ける前に沢山の癒しや、奇跡を目の当たりにしました。
何度も見たのです。
人間の能力を超えるイエスさまの力を。
私たちはどこか、霊的な問題や、精神的な問題は信仰を必要としても、
でも実際の生活は、自分で何とかしなければならないと思っている所があります。
実際の生活で問題が起こると、問題と信仰と切り離して考えてしまう傾向があるように思います。
そしてどうにもならなくなると絶望し、落ち込むのです。
私たちは、自分で結論を出してしまうのです。
私たちは習慣的に、問題が生じたら、まず解決策を考えるのです。
そして打開できるかどうか、打開できる条件を自分が持っているかどうか思考するのです。
イエスさまは、このような人間の思考傾向をご存知であられたからこそ、
この常識的な方法では解決できない問題をテストとして使われたように思います。
「自分には解決できない問題が生じた。じゃ、どうする?」 という問いかけのように感じます。
このテスト、どうすれば良かったのでしょうか。
イエスさまにどうすれば良いのか。
どのようにすれば、私たちで与える事が出来るのか、
自分で考える前に聞けば良かったのです。
私たちは順番を間違えてしまいます。
まず自分で考え、方法が無いと分かると、主に助けを求めるのです。
言葉を変えると、自分の力量が及ぶ分は、主が必要ではないのです。
主は、まず主に「どうすれば良いでしょうか」と、尋ねる事を求められています。
それから、主と共に考えるのです。
私も、分かっていながらも、ついつい自分の頭で考えてから、祈る事が多いです💦
いつも、心に記憶しないと難しいですね…
今日も、主を第一にして歩む日となりますように!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」