バプテスマのヨハネが来て、パンも食べず、ぶどう酒も飲まずにいると、『あれは悪霊につかれている』とあなたがたは言うし、
人の子が来て、食べもし、飲みもすると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです。
だが、知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。
ルカ7:33-35
バプテスマのヨハネとイエスさまが、引き合いに出されています。
ヨハネの母とイエスさまの母は従姉妹で、ヨハネはイエスさまより半年ほど先に生まれています。
ヨハネはイエスさまの先駆者と言われています。(イザヤ40:3)
イエスさまが来られるのを準備し、道を切り開いた人物だという意味です。
このヨハネは、禁欲者で、物質的な快適さを求めず、自分を厳しく律する生活をしていま
した。
当時は、大麦や小麦のパン、ぶどう酒、オリーブの実、山幸や羊、鳩の肉、湖の魚などが常食とされていた社会で、
ヨハネは、イナゴや野生のハチミツを食べ、ぶどう酒も飲まずに生活していました。
服装も、当時は
亜麻布の肌着、半毛の外衣、山華や羊の毛皮の外套などを身に着けるのが一般的だったことに対し、
ヨハネは、らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締めていたと記録されています。
一般のユダヤ人と隔絶した生き方であり、まともな日常生活から逸脱した人物だと考え、悪霊に取りつかれていると非難されていました。
それに比べ、イエスさまは多くの人と共に食事をされていました。
イエスさまは、取税人や罪人の類と一緒に食事をされる事もありました。
それにより人々は、取税人のように過剰な飲食をしていると非難し、イエスさまを大食漢、酒飲みだと偽って非難したのです。
ルカ7:33-34を読んで、ため息がでました。
これが私たち人間の姿です。
何を提供しても、私たちは耳を傾ける思いがないのです。
結局はヨハネの語る言葉も、イエスさまの言葉も受け入れたくないからなのです。
ヨハネの話は聞きたくない、なぜなら、彼は悪魔に取り憑かれているから。
イエスさまの話は聞きたくない、なぜなら、彼は大食漢で、酒飲みで、罪人の友達だから。
どの様な人を目の前にしても、受け入れないのです。
私たちは自分が正しく、目の前の人は、「なぜなら…だから」と言った目で判断しているのです。
自分は明確な理由を持っている。
自分は正しく判断出来ると思っている。
かたくなな心があるのです。
誰を持っても、それに何かしらの反発する理由が人にはあるのです。
私たちの持って生まれた罪が、私たちを頑固にさせ、また自分の正当性を主張するのです。
これは時代も国も関係なく、私たちも同じだと思います。
私は、悪い事をせず正しく生きている。だから神は必要ない。
今の自分には神は必要ない。だって自分で頑張れば大抵のことは出来るから。
あの人がクリスチャンだなんて信じられない。だってあんな性格だよ。
〇〇さんが居る限り、あの教会には行かない。だって人間性がなってない。
あんな事言うなんて、信じられない。だって常識的に考えてダメでしょ。
私を含め人は、周りを批判することによって自分を正当化してしまいます。
神さまを正しいとするのでなくて、自分を正しいとしまうのです。
自分の考えを基準とし、周りを批判するのです。
相反するヨハネとイエスさま。
この2人を引き合いに出し「結局のところ、人間は、誰をもってしても聞く耳がない」と聖書は教えている様に思います。
ヨハネやイエスさまに問題があるのではなく、
私たち自身の罪が自分をへりくだる事を拒否しているのです。
私たちは自分を正当化し、自己満足に帰結するのです。
35節。
「知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します」
新共同訳聖書では「知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される」
リビングバイブルでは、「神の知恵の正しさは、神様を信じる者たちが証明するのです」
イエスさまが救い主かどうか、正しいかどうかは、イエスさまを自分の主として受け入れ、生きて行く中で分かるのです。
私たちも、人と深く関わり、信頼できる人かどうか判断するのと同じです。
主を受け入れ、主と深く関わる時間を持つ事で、主の正しさを知ることができるのです。
私たちが持つ、自分が正しいという考え、ヘリ下ることを拒否する頑なな心…
知らず知らずに働いているかもしれません…
主を知っていく事によって、主と深く関わる時間を持つ事によって、
主の正しさと、自分の高慢な思いを悟る事ができますように…
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」