それで主は、あなたを苦しめ、飢えさせて、あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナを食べさせられた。それは、人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。
申命記8:3
神さまは、私たちを「試される(テストする)」時があります。
テストというと、なんか嫌な感じがしますが・・
主は私たちを試される時があります。
…どうしてこんな事が起きるんだろう
…どうしてこんな思いにされるんだろう
…どうして・・というように感じる時です。
毎日平穏無事で過ごせればいいのですが。
「どうして?? 主は私と共に居ると言われているのに、どうして私に…」というような状況です。
聖書で分かりやすく見れるのは、イスラエルの民の出エジプトだと思います。
エジプトからカナンの地まで、直線距離で約300キロ。仮に1日に10キロ移動するとして1か月で到着できる距離だと言われています。
しかし民は、約束の地に入るまで約40年かかっています。
本当にどうして、こんなに時間がかかったのでしょう。
成人男性だけで60万人、そこに女性や子ども、家畜までいたのです。
200万人位の移動だと言われています。
この40年間の間に何があったのでしょうか。
モーセが民を率いてカナンの地を目指し始めた頃、
エジプトのファラオ王の心が変わり、大軍を率いて追いかけてきました。
しかし民の目の前には海。絶体絶命と思った時に、モーセが海に手を伸ばし水が左右に割れ、通り道が与えられたのです。
また道中、民は、水がない、パンがない、肉を食べたい。エジプトにいた方が良かった。とモーセに文句を言い出しました。
モーセがシナイ山に登り十戒を受け取っている時、民はモーセの帰りが遅い事を心配し、金の子牛を作り拝み始めました。
大きな出来事で記録されているのはこれだけですが、多分、もっと沢山の出来事があったんだろうなと思います。
主はどうして、試されるのでしょうか。
特にこのような民の解放、移動でどうしてこのような歩みをしたのでしょうか。
主は意地悪なのでしょうか。
主のテストは、「私たちの心に何があるか」を見られているのです。
民はこの長旅で、何度も失敗を繰り返しながら、
自分たちの不信仰・高慢・自我が見えてきたはずです。
主は一つ一つを示され、民は気付き、そして主は一つ一つを正されていったのです。
もちろん、主はテストされる前から、私たちの心の状態を知っています。
私たちの心に何があるのかを知っていながら、試すのです・・
どうしてでしょうか。
私たちの心に何があるのか知らないのは、「私」だからです。
自分自身が、自分の心に何があるのか、自分の心の王座に誰が座っているのか…知らないからです。
私の心を、私に見せられる為です。
思い起こしてみてください。
自分の人生にそれほど困った事がなくなったり、上手く進んでいる時、少し軌道に乗ってる時・・
主に必死に祈るでしょうか。
主を求めるでしょうか。
良くて「神さま、ありがとー!」と思う位です。
信仰が必要なくなってくるのです。
しかし、自分が苦しい時、辛い時、寂しい時、傷ついた時、孤独な時、思い通り物事が運ばない時・・
主を思い出し、文句を言ったり、不平不満を並べるのです。
「主がいるならどうして…!!」って。
上手く行ってる時は、主を忘れ、
何か困った時は、主を責める…
自分の信仰が見えてきます。
自分がどの様な人間なのか、
本当に主を信仰していたのだろうか。
自分の信仰が見えてきます。
主が与える「試し・テスト」は私たちに気付きを与える為です。
ですから、いくら主からのテストの点数が悪かったとしても、「赤点」や「落第」「不合格」はないのです。
「なんて勝手なヤツなんだ! もう知らない!」とはされません。
しかし…「追試」はあります💦
主が与えて下さるテストで、何も悟る事がなく、不平不満だけを並べて終わるのであれば…
何度も同じテストを受ける事になります…
これは合格するまで続くと思います。
主のテストは、私たちに信仰の成長を与えてくれます。
自分に本当に信仰がないと気付き、自分が本当に何の力もなく弱い存在であると知ることが出来ます。
自分が本当に弱いものであると知ると…
主の強さを知ることが出来るのです。
自分の弱さを知る者が、主の強さを知るのです。
主は、意地悪でテストをするのではないのです。
私たちを愛しておられ、成長を望むからこそ、テストを与えられるのです。
自分の中にある心の状態(不信仰や高慢など)を認識し、主にその部分を取り扱って頂くように祈りを通して主と向き合うのです。
信仰によって、主によって、解放され自由と癒しを得る為です。
私は自分に問題が生じると…(笑)
「主よ。私に語りかけを下さり感謝します。私が心を開き、主の語りかけを100%受け取れますように。一回で最短で、このテストをパスしたいです!」と祈ります。
私たちは主のテストを通して、心が痛み、苦しみを覚えることが多いです。
しかし、その痛みを通して、正された自分へと成長する事ができ、また「主の愛」を感じる事ができるのです。
ペテロも自分の信仰は、誰よりも強く、無くなるものではないと思っていました。
「主と共に死んでもいい…」と言いました。
しかし実際には直ぐに、主を「知らない」と言ったのです。
ペテロは、自分に弱さがあったことを、自分の信仰が弱いものであったことを、初めて知ったと思います。
ペテロは自分に信仰がない事に気付き、苦しんだと思います。
ペテロは主のテストを受ける前まで、自分に弱さがあるなんて思いもしなかったと思います。
しかし、自分の弱さを痛感する事により、主の強さを知るのです。
主に試され、痛さを通り抜けたとき、ペテロは素晴らしい弟子に成長できたのです。
自分が神を愛する以上に、自分が主に愛されていると、気付けたと思います。
試される…
痛さを伴いますが、主の大きな愛です。
不平不満を並べ過ごすのではなく、主からの語りかけに心と耳を傾け…一回でパスしますように。
今日も、主からの語りかけに心を開くことが出来ますように!!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」