だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。
人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。
愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。
ヤコブ1:13-16
今日は「誘惑」について考えてみたいと思います。
「誘惑」と聞いて、何を連想しますか?
今日の御言葉を読めば、誘惑とは主から与えられるものではないと分かります。
また「誰でも誘惑に会った時」と書いています。
「誰でも」であり「もし」誘惑にあった時ではないのです。
人は、何かの誘惑に遭うものなのです。
イエスさまも経験された「誘惑」(ルカ4章)
イエスさまは3つのパターンの誘惑に遭われました。
1つ目の誘惑は「肉の欲(マタイ4:3-4)」です。
主は空腹を覚えられ、肉体的な必要に語りかける誘惑でした。
2つ目の誘惑は「英雄欲(マタイ4:5-7)」です。
奇跡を行い、人々の注目を浴び、崇められるようになるという誘惑です。
3つ目の誘惑は「支配欲(マタイ4:8−10)」です。
この世を支配する力を持つ、救い主にさせてやろうという誘惑です。
「誘惑」は、実は沢山の種類があるのです。
性的な誘惑もあれば、お金の誘惑、高慢、食べ物、怒り、プライド、悲しみ、怠け・・・
このように挙げて見ると、
「誘惑」も「試練」も似ている様に思います。
「試練」も「誘惑」も「試み」だと言えると思います。
違いはなんだろう・・・
「試練」とは、私たちは困難な状況や課題に直面すること。
これらを通して、信仰が試されるのです。
試練は、私たちを強めます。私たちを成長させます。
試練は、私たちを主に近づけます。
「誘惑」とは、私たちが悪に対して引かれる状態や力。
罪への誘い。主の道から離れるような誘い。
誘惑は、私たちを弱めます。私たちを滅ぼします。
誘惑は、私たちを主から遠ざけるものです。
対処法も違います。
試練の対処法は「忍耐」です。
主の時が来るまで、主を信じ忍耐するのです。
誘惑の対処法は「逃げる」ことです。
誘惑には人は勝つことが出来ないと思います。
その場に留まると、負けてしまいます。
「これは・・誘惑だ」と感じたら、直ぐにその場から身を避けるべきです。
誘惑を横に置き「主よ。私が誘惑に負けませんように」と祈るのは・・少し違うと思います。
また試練は、主が送られる事があります。
しかし、誘惑は主が送られる事はないのです。
誘惑には、勝つことが出来ません。
誘惑が目から入り、逃げずにその場にいると、誘惑は心の中で成長します。
そして、誘惑を手にする時、人は一時的に欲求が満たされ満足を覚えるのです。
幸せを感じるかもしれません。
しかし、それは悪の始まりであり罪なのです。
滅びの道(死)へと歩み始めているのです。
罪は死を生むのです。
騙されてはいけないのです。
エバも蛇に誘惑されました。騙されたのです。
エバはどの様に騙されたのでしょうか。
蛇はエバに「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」と言いました。
主は素晴らしい方で、素晴らしいものを造られた。
なのに、あなたにはこれを食べてはいけないって・・あの神さまが本当に言ったの?
主の素晴らしさを認めることで、エバの思いに同調した語りかけです。
大丈夫! 僕も主の素晴らしさは知っているよ。
主がエバに必要な物を全て与えて下さる方だって知ってるよ。
でも・・主は素晴らしい方なのに、これはあなたには与えてくれないのね?
よく見て! 凄く美味しそう・・でもエバは、これは食べれないんだ・・
・・という誘いなのです。
エバは、善悪の知識の実以外は、全て与えられていました。
エバは主が自分を愛して下さっている事。
必要を与えて下さる事。
守って下さる事。を知っていたのです。
殆どの多くを与えられているのに、与えられていないたった一つをフォーカスしたのです。
・・・私たちも同じではないでしょうか。
沢山のものが与えられているのに、
与えられていないものにフォーカスし、欲に負けるのです。
与えられていないものを見て、
「主は、これを与えてくれない。主は、私にこの部分は祝福して下さらないんだ・・」と思ってしまうのです。
騙されてはいけないのです!
私たちに必要なものは、既に与えられているし、これから必要になるものはその時に与えられるのです。
「善悪の知識の木」
どうしてエデンの園に置かれたのでしょうか。
これは難しい問いかけです。
今の時点で私が思うのは、
「神の領域」というものを教えられたのではないかと思います。
あなたたちには、必要なものは全て与えてあげた。
でもあなた方は人間であり、神ではない。
平和な世界、食べ物にも困らず、幸せに過ごせる世界を与えた。
でも、神ではないのだよ。
神は私だけである。
私の領域に手を伸ばしてはいけないという、1つの約束。
それともう1つ。
善悪の知識の実の存在は、「完全なる主の愛の象徴」です。
主は私たちを創造する時に、自由を与えられたのです。
主の言葉に従うロボットのような存在ではなく、
「自由意志」を持った人間を創造されたのです。
主は、「私はあなたを愛している。でもあなたが私を愛するかどうかはあなたの意志で決めなさい」と言うものです。
これは完全なる愛なのです。
私たちも異性に対して、この様な愛を求めます。
私の持つ力や権力で、相手に従わせ、服従させる愛を相手に求めていません。
それは歪んだ愛です。
本当の愛は、相手も自分の心から愛するという事を感じ選ぶものなのです。
主は、私たちに本当の愛を選んで欲しいのです。
善悪の知識の実を選ぶという事は、主ではない「罪」を選ぶという事を意味すると思います。
あなたに必要なものは全て与えてあげたよ。
でも、あなたが私の元を去るという選択もできる。
私はそれを望んでいない・・・
私はあなたを信じている・・
完全なる主の愛の象徴だと・・・私は思います。
この善悪の知識の実の存在については、聖書に詳しく書かれていませんので・・
これが正解!とは言えませんが・・
ただ分かっている事は、アダムとエバは99%与えられていたのに、与えられていないたった一つをもって
「与えられていない」とフォーカスした点です。
そして蛇は、私たちの信仰を同調するように、近寄って来るという点です。
そして私たちは気を許してしまい、
正しくない点にフォーカスし、「主は私にこの点(与えられていないもの)を祝福してくれていない」と思うのです。
そして、与えられていないものを、与えられるようにと祈るのではなく、自分の手でもぎ取り、手に入れるのです。
・・騙されてはいけないのです。
今日も、主と共に歩み、主が与えて下さったものにフォーカスする一日となりますように!!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」