「試練」と「誘惑」って何だろう【ヤコブ1:13-16】

2023年

だれでも誘惑に会ったとき、神によって誘惑された、と言ってはいけません。神は悪に誘惑されることのない方であり、ご自分でだれを誘惑なさることもありません。

人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。

欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。

愛する兄弟たち。だまされないようにしなさい。

ヤコブ1:13-16

今日は「誘惑」について考えてみたいと思います。

「誘惑」と聞いて、何を連想しますか?

今日の御言葉を読めば、誘惑とは主から与えられるものではないと分かります。

また「誰でも誘惑に会った時」と書いています。

「誰でも」であり「もし」誘惑にあった時ではないのです。

人は、何かの誘惑に遭うものなのです。

イエスさまも経験された「誘惑」(ルカ4章)

イエスさまは3つのパターンの誘惑に遭われました。

1つ目の誘惑は「肉の欲(マタイ4:3-4)」です。

主は空腹を覚えられ、肉体的な必要に語りかける誘惑でした。

2つ目の誘惑は「英雄欲(マタイ4:5-7)」です。

奇跡を行い、人々の注目を浴び、崇められるようになるという誘惑です。

3つ目の誘惑は「支配欲(マタイ4:8−10)」です。

この世を支配する力を持つ、救い主にさせてやろうという誘惑です。

「誘惑」は、実は沢山の種類があるのです。

性的な誘惑もあれば、お金の誘惑、高慢、食べ物、怒り、プライド、悲しみ、怠け・・・

このように挙げて見ると、

「誘惑」も「試練」も似ている様に思います。

「試練」も「誘惑」も「試み」だと言えると思います。

違いはなんだろう・・・

「試練」とは、私たちは困難な状況や課題に直面すること。

これらを通して、信仰が試されるのです。

試練は、私たちを強めます。私たちを成長させます。

試練は、私たちを主に近づけます。

「誘惑」とは、私たちが悪に対して引かれる状態や力。

罪への誘い。主の道から離れるような誘い。

誘惑は、私たちを弱めます。私たちを滅ぼします。

誘惑は、私たちを主から遠ざけるものです。

対処法も違います。

試練の対処法は「忍耐」です。

主の時が来るまで、主を信じ忍耐するのです。

誘惑の対処法は「逃げる」ことです。

誘惑には人は勝つことが出来ないと思います。

その場に留まると、負けてしまいます。

「これは・・誘惑だ」と感じたら、直ぐにその場から身を避けるべきです。

誘惑を横に置き「主よ。私が誘惑に負けませんように」と祈るのは・・少し違うと思います。

また試練は、主が送られる事があります。

しかし、誘惑は主が送られる事はないのです。

誘惑には、勝つことが出来ません。

誘惑が目から入り、逃げずにその場にいると、誘惑は心の中で成長します。

そして、誘惑を手にする時、人は一時的に欲求が満たされ満足を覚えるのです。

幸せを感じるかもしれません。

しかし、それは悪の始まりであり罪なのです。

滅びの道(死)へと歩み始めているのです。

罪は死を生むのです。

騙されてはいけないのです。

エバも蛇に誘惑されました。騙されたのです。

エバはどの様に騙されたのでしょうか。

蛇はエバに「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」と言いました。

主は素晴らしい方で、素晴らしいものを造られた。

なのに、あなたにはこれを食べてはいけないって・・あの神さまが本当に言ったの?

主の素晴らしさを認めることで、エバの思いに同調した語りかけです。

大丈夫! 僕も主の素晴らしさは知っているよ。

主がエバに必要な物を全て与えて下さる方だって知ってるよ。

でも・・主は素晴らしい方なのに、これはあなたには与えてくれないのね?

よく見て! 凄く美味しそう・・でもエバは、これは食べれないんだ・・

・・という誘いなのです。

エバは、善悪の知識の実以外は、全て与えられていました。

エバは主が自分を愛して下さっている事。

必要を与えて下さる事。

守って下さる事。を知っていたのです。

殆どの多くを与えられているのに、与えられていないたった一つをフォーカスしたのです。

・・・私たちも同じではないでしょうか。

沢山のものが与えられているのに、

与えられていないものにフォーカスし、欲に負けるのです。

与えられていないものを見て、

「主は、これを与えてくれない。主は、私にこの部分は祝福して下さらないんだ・・」と思ってしまうのです。

騙されてはいけないのです!

私たちに必要なものは、既に与えられているし、これから必要になるものはその時に与えられるのです。

「善悪の知識の木」

どうしてエデンの園に置かれたのでしょうか。

これは難しい問いかけです。

今の時点で私が思うのは、

「神の領域」というものを教えられたのではないかと思います。

あなたたちには、必要なものは全て与えてあげた。

でもあなた方は人間であり、神ではない。

平和な世界、食べ物にも困らず、幸せに過ごせる世界を与えた。

でも、神ではないのだよ。

神は私だけである。

私の領域に手を伸ばしてはいけないという、1つの約束。

それともう1つ。

善悪の知識の実の存在は、「完全なる主の愛の象徴」です。

主は私たちを創造する時に、自由を与えられたのです。

主の言葉に従うロボットのような存在ではなく、

「自由意志」を持った人間を創造されたのです。

主は、「私はあなたを愛している。でもあなたが私を愛するかどうかはあなたの意志で決めなさい」と言うものです。

これは完全なる愛なのです。

私たちも異性に対して、この様な愛を求めます。

私の持つ力や権力で、相手に従わせ、服従させる愛を相手に求めていません。

それは歪んだ愛です。

本当の愛は、相手も自分の心から愛するという事を感じ選ぶものなのです。

主は、私たちに本当の愛を選んで欲しいのです。

善悪の知識の実を選ぶという事は、主ではない「罪」を選ぶという事を意味すると思います。

あなたに必要なものは全て与えてあげたよ。

でも、あなたが私の元を去るという選択もできる。

私はそれを望んでいない・・・

私はあなたを信じている・・

完全なる主の愛の象徴だと・・・私は思います。

この善悪の知識の実の存在については、聖書に詳しく書かれていませんので・・

これが正解!とは言えませんが・・

ただ分かっている事は、アダムとエバは99%与えられていたのに、与えられていないたった一つをもって

「与えられていない」とフォーカスした点です。

そして蛇は、私たちの信仰を同調するように、近寄って来るという点です。

そして私たちは気を許してしまい、

正しくない点にフォーカスし、「主は私にこの点(与えられていないもの)を祝福してくれていない」と思うのです。

そして、与えられていないものを、与えられるようにと祈るのではなく、自分の手でもぎ取り、手に入れるのです。

・・騙されてはいけないのです。

今日も、主と共に歩み、主が与えて下さったものにフォーカスする一日となりますように!!

「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」

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