主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。
彼は、外に出て、激しく泣いた。
ルカ22:61-62
今日の聖書の箇所は、何度もよく聞いた話です。
イエスさまが十字架に架かるまえに、ペテロが「主よ。ご一緒になら、牢であろうと、死であろうと、覚悟は出来ております」と信仰告白した話です。
ペテロは、直情的で情熱的な性格。
ペテロは凄く人間的で失敗も多かったのです。
情熱的なペテロは主を思う思いに動かされ「どこであろうとご一緒なら覚悟は出来ている」と
信仰告白をしたのに、
目の前に自分の「死」がチラついた時、
怖くなり「主を知らない」と言ってしまい・・
そして、大きな失敗をしたペテロは、
悔い改め、後には立派な弟子として人生をまっとうした。
という「ペテロの失敗談」のように感じていました。
しかし、今日もう一度よく読むと、
ペテロの信仰告白の前に31-32節に、
「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
とあります。
サタンがペテロをふるいにかけるように願ったのです。
それを主がゆるされ、ペテロはふるいにかけられたのです。
主がペテロに問題が起こることを「よし」とされたのです。
「あなたはふるいにかけられるよ」という主の言葉を聞いて、ペテロが「どこであろうとご一緒なら覚悟は出来ている」と信仰告白をしたのです。
テストなのです。
ペテロは自分の信仰は誰よりも「強い」と思っていたのです。
ペテロは自分は誰よりも主を愛していると思っていたのです。
何があっても自分と主を離すものはないと疑いがなかったのです。
自信があったのです。
そして、その自信は粉々に崩されました。
その日の内に、あっという間に崩されたのです。
鶏が鳴くのを耳にし、ペテロは「外に出て、激しく泣いた」と書かれています。
あれ程、自分が一番だと、絶対に主を離れない、裏切らない、主に絶対に付いて行くんだ、自分は主を本当に愛している、主は自分の全てである・・・
その様に思っていた信仰が砕かれたのです。
主がペテロの信仰を砕く事をゆるされたのです。
ペテロは、自分を過剰視していたことは、テストされるまで気付かなかった、知らなかったのです。
主はテストされます。
テストを通し、自分の信仰の弱さに気づき、
自分や自分の信仰に頼るのではなく、
「主にのみ頼る者」と変えられる為です。
テストが始まる前に(ペテロの信仰告白前)
主は「私は、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われています。
ペテロが粉々に砕かれ、ペテロの心がどうなるのか、主は分かっていたのです。
その為に、テストが始まる前に主がとりなして下さっているのです。
テストを通して、私たちの信仰が無くならない為に・・
そして立ち直ると信じて下さっているのです。
立ち直り、その後の道も示して下さっているのです。
この聖書の個所は、単なる「ペテロの失敗談」の1つ。ではなく、
主が、過剰視している信仰を砕かれ「自分の信仰の弱さ」に気付きを与えられたのです。
私は、61節の御言葉が好きです。
「主が振り向いてペテロを見つめられた」
ペテロが自分の失敗に気付いた時に、
主は振り向いてペテロを見つめられたのです。
この時・・・主は兵に捕らえられ大祭司の家に引かれ連れていかれる道中です。
今まさしく、十字架刑が始まろうとしている時です。
イエスさまは人間の罪を許す為、身代わりとなる為にこの世に生まれ・・
まさに今からその十字架に向かい進まれている時にです・・
ペテロを心配して見つめられていたのです・・・
多くの群衆が、イエスさまを囲むように連行される場所にいたはずです。
イエスさまは、多くの群衆が居る中、ずっとペテロが何処にいているのか分かっていたのです。
主は自分が連行されながらも、ペテロが何処にいて、テストを受けているのをご覧になっていたのです。
主は最後の最後まで、
十字架刑が始まっている中でも、
ペテロを心配し、
ペテロの信仰が無くならないようにとりなして下さったのです。
61節の「主が振り向いてペテロを見つめられた」という御言葉・・
この一文に、主の深い愛を感じます・・
主の愛は本当に憐れみ深い・・
今日も、主は私たちを見つめておられます。
主に感謝し、一日を過ごしたいと思います。
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」