あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
コロサイ3:2
主は私たちに「自由」を与えてくれました。
それは、エデンの園に住んでいるアダムとエバに対しても・・
アダムとエバに対して、「主と共に歩む」という事と「主と離れて歩む」という選択です。
「善悪の知識の実」を食べるという行為が「主と離れて歩む」という選択を与えられたのです。
主とどの様な関係で歩むかという選択。
「主から離れて歩む」「主に背を向けて生きる」という生き方は、聖書の言う「罪」を選択するという生き方になります。
聖書の言う「罪」とは、主から離れて生きる事。主に背を向けることを意味します。
主が、私たちに自由を与える理由は、主が私たちを愛しているから。
もし自由を与えなかったら、私たちは主の言う事を何でも聞くロボットのような存在になります。
愛するが故に自由を与え、私たちを信じられたのです。
今の時代にも主は、私たちに「選択の自由」を与えてくれています。
今の時代も、私たちは選択しながら生きて行くのです。
主に従う事も出来るし、主が喜ばれる事を選ぶことも出来るし、その反対も選択出来るのです。
日々、何度も選択をしながら過ごしているのです。
「選択の自由」が与えられている私たち・・ どうすれば良いのでしょうか。
「選択の自由」という事は、Aにするか、Bにするか、それともC?という風に選択肢から選べるのです。
選べるという事は「考える」という事が必須となります。
私たちは、「考えて」選ばないといけないのです。
「考える自由」が与えられているのです。
単に、考えて自分の欲しいものを選ぶ、という自由もありますが、
どの様な環境下にあっても「考え」は自由だとも言えます。
一番思い出すのはパウロです。
パウロは、無実の罪で鞭打ちの刑にされ、投獄されました。
しかし、投獄されながらも沢山の教会に対して手紙を書いています。
牢獄にいれられながらも、パウロは「いつも主にあって喜びなさい(ピリピ4:4)」と言っています。
私たちはパウロを通してどの様な環境であっても「考えは自由」であるという姿を学ぶ事ができます。
環境が「考えの自由」が奪う事は出来ないのです。
自分の状況が、考えまでを支配することは出来ないと言う意味です。
ダビデもそうです。
サウル王に妬まれ命を狙われ追いかけられまわされたのです。
ダビデには、サウルを殺すチャンスがありました。
しかし、ダビデは「主が選ばれた人を自分の手で殺さない」という選択をしたのです。
ステパノも同じです。
熱心な宣教がユダヤ人の反感を買い、石打ちの刑に処せられ、キリスト教会史上最初の殉教者となりました。
しかし石打ちに遭いながらも、彼の顔は天使の顔のように見えたと記録されています。(使6:15)
ステパノは体は環境下に拘束されながらも「心と考えは自由」だったのです。
自分の置かれた環境に「心と考え」は支配されなかったのです。
私を含め多くの人は、自分に苦しい環境が来ると、自動的に心が苦しくなるのが当たり前だと思ってしまっています。
こんな状況で誰が喜ぶことが出来る?
心が苦しいのは当たり前・・
不安になるのも当たり前
イライラするのも当たり前
全てが嫌になり生きる事が苦しくなるのも当たり前
この様に思ってしまいます。
これは特に、自分の有事でない時から、しっかりと記憶するのが大切だと思います。
自分に置かれた環境は、選択出来ない事があります。
しかし、心まで従うことはない。
心まで奪われ、苦しむ必要はない。
考えや思いは誰も支配できない。
「考え、思い、心」は私の選択の結果なのです。
主に与えられた「考えの自由」・・
私たちは信仰を持って「環境と心」を離して考えるようにしたいものです。
苦しく耐えがたい環境に全てを支配されず、「考えの自由」を選択肢、勝利する人生を歩みたい・・・
御言葉を心に蓄えて下さい。
御言葉が考えの武器になります。
勝利の武器となります。
否定的な考え、怒り、憎しみ、嫉妬、疑い、恐れ、心配・・・
このようなものは、主が与えられたのではないのです。
主から来たものでないものに、心を支配されてはいけないのです。
「考えと心」は環境に支配されず、「考えと心」が自分の人生を決めるのです。
今日の御言葉にあるように
「地上のものを思わず、天にあるものを思う」
地上の色々な出来事に心まで支配されず、心は主を考え思う・・・
今日も、主にあって勝利する一日をお過ごしください!!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」