真の礼拝者とは・・「礼拝」の意味【ローマ12:1】

2023年

そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

ローマ12:1

「礼拝」とは何でしょうか。

何を求めて教会へ行き「礼拝」を捧げていますか?

礼拝は、神さまに喜ばれ、受け入れられるものである必要性があります。

今日の御言葉を見ると、その様な礼拝を捧げる為、自分自身を「生きた供え物として捧げなさい」と書いてあります。

ここから分かるように、

神さまに喜ばれ、受け入れられる礼拝とは、「自分自身を捧げる」という意味なのです。

旧約時代では、神への感謝の気持ちを込めて、「神に返す」と言う意味で収穫の初穂や家畜の初子を捧げていました。

初の物を捧げる・・と聞いて思い出すのは、カインとアベルです。

カインとアベルは神さまに捧げものをしました。

それは神さまへの礼拝であり、神さまに対する信仰の現れです。

同じように捧げものをしても、主はアベルの捧げものを喜ばれ、カインの捧げものには「目を留められなかった」とあります。

カインとアベルの礼拝には、彼ら自身の心の在り方が違がったからです。

私たちは、牧師を通しメッセージを通して、恵まれる礼拝を求めます。

「今日のメッセージ凄く恵まれた!」と感じたり、「今日のはあまりピンとこなかった・・」と感じたり・・

神さまからの恵みを求めて礼拝に行こうと教会へ足を運んでいます。

しかし、主に本当に喜ばれる礼拝とは、私たちが恵みを受ける為の礼拝ではないのです。自分自身を捧げるという思いを持つ事が、主に喜ばれる礼拝なのです。

アブラハムはイサクを捧げました。

それでアブラハムはイサクを捧げる為に共に一緒に行った若い者たちに、

「あなたがたは、ろばといっしょに、ここに残っていなさい。私と子どもはあそこに行き、礼拝をしてあなたがたのところに戻って来る」(創世記22:5)と言いました。

イサクを捧げるという決断、行為は、アブラハムにとって神様への礼拝なのです💦

・・・礼拝って、恐ろしく感じませんか?

恵まれに行くものだと何となく思っていたのに・・自分の全てを捧げに行くもの・・できないな・・と。

真の礼拝は、自分では出来ないのです。

だから今日の御言葉にあるように「神の憐れみにより」出来るものなのです。

「自分自身を捧げる」とは、自分に関する全ての支配権を主に捧げる、お返しするという意味です。

自分に関する全ての支配権・・体も心もと言う意味です。

自分の人格、自分の意思、感情、思いを神にすべて委ねる、自分の全てを、神のものとして捧げることです。

「捧げる」というのは、主に委(ゆだ)ねるという事でもあります。

自分で自分を握りしめ、自分の力でなんとかしようとするのではなく、主に委ね、主の御手の中で生きて行くという意味です。

自分の全てを委ねる事も、自分を捧げる事も・・自分の力では出来ないのです。

主の憐れみなく、私たちは何一つする事が出来ないのです。

「主よ。今日も私を憐れんでください。私が自分の全てを主に委ね、今日も生きていく事ができますように・・」

今日も、主と共に歩み、主に語りかけながら一日をお過ごしください!

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。(ブログ2023.04.28~)

「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」

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