イエスさまに聞かれたら何と答えますか【ルカ19:12-21】

2023年

それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。

彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』

しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません』と言った。

さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。

さて、最初の者が現れて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナもうけました。』

主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』

二番目の者が来て言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。』

主人はこの者にも言った。『あなたも五つの町を治めなさい。』

もうひとりが来て言った。『ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。

あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。』

ルカ19:12-21

「ミナの例え話」を読みました。

ユダヤの人にとって、この例え話で思い出す人物がいるそうです。

イエスさまが誕生された当時のヘロデ王・・その息子であるアルケラオと言う人物を連想させるそうです。

後継者のアルケラオも、王として任命される為、ローマの承認を受けに旅立ったのです。

しかし彼はエルサレムでユダヤ人を3000人殺した経緯があり、ユダヤ人たちは皇帝に使いを送り、アルケラオを王として任命しないように嘆願したという出来事があるようです。

そして、この例え話は、しもべは国民に受け入れられていない王に、商売をするように言われたのです。

国民が王を嫌っているのに、王が託した店で誰が買うでしょうか。

難しい商売を命じたという話です。

しかしイエスさまは、この経緯を通しイエスさまご自身の話を例えて言われたのです。

イエスさまは天に昇られ、実際的にはこの地上におられず不在なのです。

そしてイエスさま不在のこの地上で、人々は主を受け入れる事を拒否しているのです。

そして、主が旅立つ前に、10人のしもべを呼んで「1ミナ」を託され、商売をしなさいと言われたのです。

全ての民に託したのではなく、主は人を選んで託されたのです。

選ばれた人とは、私たちクリスチャンです。

「1ミナ」とは「賜物」です。

賜物を用いて、神の子を増やすという意味です。

イエスさまが物理的に不在であるこの地上で、賜物を用いて生きて行く事を命じられたのです。

1人の人は1ミナから10ミナに増やし、5ミナに増やした者もいます。

そして何もせず、風呂敷に包んで1ミナを持ち続けた人もいたのです。

この例え話、とても大切だと思います。

主は人を選び、同じ1ミナを一人一人に託したのです。誰かには多く、私には少ない・・ではなく、皆に同じ量、任されたのです。

私たちに与えられている賜物は、大きい小さいがないと言う事です。

もともと与えられた賜物は同じなのです。

そして、イエスさまが不在の時間、どのように賜物を用いて過ごすかが問題なのです。

聖書を見ると、10ミナにした者だけが喜ばれたのではなく、5ミナに増やした者も喜ばれました。

「どれ程、儲けたか」「どれ程、増やしたか」が重要ではないという事です。

主が基準として見られるのは「僅かなものにも忠実かどうか」を見られているのです。

与えられた賜物を用いたかどうか・・を見られるという事です。

どれ程大きな働きをしたか・・を見られるのではないという事です。

私たちは、主に大きく用いられる人を見ると「凄いな・・自分とは異次元・・」と思ってしまいます。

主が与えて下さっている賜物は、人それぞれ違います。

献身者という賜物、預言の賜物、癒しの賜物、賛美の賜物、芸術的な賜物、教えるという賜物、祈りの賜物、奉仕の賜物など・・

人の目に惹かれる賜物もあれば、祈りや奉仕はあまり目立たない賜物の様に感じてしまいます。

しかし、主は同じ1ミナとして託されているのです。

主の目には同じ賜物だという事です。

留守をしていた王が王位を受けて帰って来た時、しもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出したように・・

イエスさまはもう一度来られるのです。

そして私たちに問われるのです。

あなたに託した賜物をどの様に用いたか。と・・

どれほど大きな事をしたか、どれほど献身したか、どれほど多く捧げたか・・という視点で私たちを評価されないのです。

御言葉にある「10ミナ、もうけました」という「もうけました」と言う単語・・「生まれました」とも訳せるそうです。

自力で頑張ったというより、主の恵みにより・・という意味があるのです。

イエスさまは、いつか帰って来られるのです。

その時に、自分は何て答える事ができるんだろう・・💦

「え・・💦  私に賜物って与えられていましたか?」と言ってしまう可能性もあるのです。

クリスチャンには皆が平等に与えられている同じ賜物が1つあります。

祈りの賜物です。

私たちは祈る対象をすでに知っているからです。

自分の賜物がわからない・・と思われる方もいらっしゃると思います。

少なくとも、主を信じ、神の子とされた私たちにたちには「祈りの賜物」は与えれています。

この祈りの賜物を用いずに、他の賜物を用いる事は出来ないからです。

今日は、自分に与えられているミナ・・賜物についてもう一度、黙想したいです。

そしてどの様に用いることを望まれているのか祈りながら過ごしたいです。

主に与えられた賜物を生かす一日となりますように!

 

PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。(ブログ2023.04.28-29)

「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」

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