ウリヤはダビデに言った。「神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。それなのに、私だけが家に帰り、飲み食いして、妻と寝ることができましょうか。あなたの前に、あなたのたましいの前に誓います。私は決してそのようなことをいたしません。」
Ⅱサムエル11:11
主が与えられた私への十字架・・
受け取る事を躊躇し、受け取らない場合・・どうなるのでしょうか。
ペテロは自ら「全ての人が主を見捨てても私は主を見捨てません・・」と告白しながらも、実際に自分に危機を感じた時、恐れに負けました。
ペテロは心から、死までもイエスさまに付いて行く!という思いがありました。
しかし実際に十字架を受け取る事は出来なかったのです。
するとその十字架は、クレネ人シモンが負う事になったのです。
主が与えられた十字架を受け取らない場合、他の人へと十字架は移されるのです。
主が与えようとしている祝福。
受け取らない祝福は、他の人が受け取る事になるのです。
そして、ペテロが隠れてゴルゴダの丘を歩くイエスさまを見ていたように、自分が背負うはずの十字架を、他の人が背負う姿を目にすることになります。
自分が貰うはずの祝福を他の人が受けるのを見る事になるのです。
他人の手に譲られたのを目にした時は、もう手遅れなのです。
主を恐れ主に大きな祝福を受けていたダビデ王。
どうして罪を犯してしまったのでしょうか?
どの様な戦いにも出陣していたダビデ。
しかしアンモン人との闘いは、勝敗の行方は明らかだと判断したダビデ。
出向くまでもなかったのと考えたかもしれません。ダビデは戦いの全てを、軍の司令官ヨアブに委ねました。
そして自分はエルサレムに残ったのです。
そして、バテ・シェバの沐浴を見てしまうのです。
そして、バテ・シェバは妊娠を知り、自分の政治にヒビが入るのを恐れたダビデ王は、バテ・シェバの夫、ウリヤを戦場から呼びます。
そして少しの会話をした後、家に帰るように言うのです。自分の罪を隠す為に。
しかしウリヤはバテ・シェバのもとに帰らず、王宮の門で自分の家来たちと寝るのです。
それを知ったダビデは、どうして家に帰らなかったのか聞います。
ウリヤは「家来たちも戦場で野営しています。私だけが家に帰り、飲み食いして、妻と寝ることができましょうか」と言います。
それを聞いた、ダビデは「明日、あなたを送り出そう」と言い、その日ウリヤに飲み食いさせ酔わせました。
酔ったウリヤは妻のもとに帰るのではないかと考えたのです。
しかしウリヤは妻のもとに帰りませんでした。
主は、罪を犯したダビデに対して、ウリヤを通して語りかけていたのです。
「自分の欲ではなく、常に主を恐れ物事を選択している姿・・ウリヤの姿は、以前のあなたの姿ではないか。」
「以前のあなたの姿を思い出せ」
「これが本来のあなたの姿だ」
「悔い改め私の元に戻りなさい」
主は、ダビデに自分の罪という十字架を背負って欲しかったのです。
今、あなたはこの十字架を受け取り、私の元に帰って来なさい。思い出しなさい。ウリヤの姿はあなた本来の姿であるという事を・・
しかし、ダビデは受け取るどころか・・・自分の罪が大ごとにならないようにする為、ウリヤを殺すのです。
ウリヤを殺すとう命令をダビデが信頼している側近であり、今回の戦いを任せた軍の司令官ヨアブに命令するのです。
ダビデは自分の大きな罪が世の中に知れ渡り、王権に影響を受けたくなかったのです。
結局、司令官ヨアブは、ダビデ王から心が離れてしまい、王の命令を聞かなくなりました。
ダビデ王は、信頼を失ったのです。
そして、バテ・シェバとの子どもは死に、自分の最愛の息子であるアブサロムは、突然王を名乗りダビデから王権を奪おうとします。
結局、ダビデの部下によりアブサロムは殺されます。
ダビデは、必死に考えたハズです。
このままではヤバい・・どうすれば罪を隠せるか。ウリヤを呼び寄せれば、自分の罪を隠せると考えたのです。
しかも一回上手くいかず、もう一度チャレンジするのです。ウリヤを酔わせて・・
ダビデは、ウリヤの忠誠を尽くす姿を見ながら、主の語りかけだと気付いてもウリヤを殺したのかどうかは分かりません。
もしかしたら、語りかけだと気付かなかったかもしれません。
本来のダビデであれば、自分の命が狙われていても主を恐れる信仰者でした。
・・主は、私たちにも語られます。
「悔い改め、私の元に帰って来なさい」
「今のあなたの姿は間違っている・・」
日々、主は私たちの生活の中でも、ダビデに語ったように語りかけておられるのです。
自分の与えられた十字架を負わず、ダビデのようにウリヤを殺してから後悔しても遅いのです。
もう手遅れなのです。
主が与えられる十字架・・
ペテロのように、三度知らないと言っても、復活後にイエスさまがペテロに会いに来られもう一度弟子として生きて行くチャンスを与えられる事もあります。
しかし、ダビデのように手遅れになる場合もあるのです。
主が与えられる十字架・・
辛く苦しく犠牲の人生を歩むものではないのです。
イエスさまが負われた十字架は「死」へと続く十字架であり、
主が今、私たちに与えようとする十字架は「主」へ続く十字架なのです。
主が与えようとしておられる祝福を、他の人が手にするのは勿体ない話です。
他の人に十字架が移れば、もうその祝福は自分の物にはならないのです。
今日も、主と共に歩みましょう。
主の語りかけに、心が敏感でありますように!