そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
ローマ5:3-5
主は私たち、誰に対しても小さな使命を与えられています。
使命というと、大きなものを想像してしまいがちです。
献身者であったり、牧師、宣教師・・目に見えて多きな働きをする人だけが与えらえているかのように感じるかもしれません。
しかし本当は、「使命」は全ての人に与えられているのです。
「奉仕」という形で使命が与えられているとも言えます。
日々、教会の掃除、水やり、日曜学校の教師、車の運転・・これら全ては単なる「ボランティア」感覚で、教会のお手伝いとして行うのと、
「これは主が私に与えられた使命だ」と思い仕えるのは、大きな違いがあると思います。
使命とは、主が私に託して下さったものなのです。
また、私たちは日々、色々な出来事に出合います。
自分に直接降りかかる問題。
心の痛み。
愛する家族や友達、夫婦の問題。
世の中の問題。
私たちは生きながら、喜びに満ちた瞬間より苦しみが降りかかったピンチな瞬間の方が多いかもしれません。
ニュースを見ても、心が躍る嬉しいニュースもありますが、重くて暗い受け取りがたいニュースも多くあります。
私たちは神の子としてどの様に、世の中を受け止め生きていけば良いのでしょうか。
良いニュースを見て共に喜び、悪いニュースを見て共に心を痛める・・・のではなく。
どの様な状態にあっても、心を落胆させない・・
今日の御言葉を読むと、
「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」と書いてあります。
私たちクリスチャンは、自分の置かれた状況に心を奪われ、
世の中の出来事にため息ばかり・・
ではなく、パウロのように、どの様な状況に置かれても「希望の賛美」を歌う者であるべきです。
自分の思い描くように事が進まない時は、私たちは直ぐに戸惑ってしまいます。
御心ではないのか。道が閉ざされたのではないか・・
あれやこれやと考えを巡らすのです。
自分に何か罪があったのではないか。
自分の心に良くない思いがあったのではないか・・懸命に探ります。
自分の思い通りに進めない時、
主がより良いものを与えようと、私たちは祈って待つように言われている事も多いのです。
忍耐・品性・希望を生み出すようにと、私たちが主を待っているのではなく、主が私たちを待たれている事も多いのです。
私たちが持つ希望は、失望に終わる事がないのです。
私たちは、神の子らしく失望に終わる事がない希望を持ち、日々歩んで行く使命が与えられています。
私たちの口から、どの様な言葉を沢山発しますか?
不平や不満が口癖になっていないでしょうか。
物事を否定的に受け止めていないでしょうか。
何をしている時が、一番平安で過ごす事が出来ているでしょうか?
私たちの口から、感謝が溢れ、賛美を口ずさむ者となりたいです。
主が下さる神の子としての使命・・
また私だけに与えて下さる使命・・
全うする人生を歩めますように!
今日も、主と共に歩む素晴らし一日となりますように!!
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」