だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。
だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。
マタイ6:33-34
主がいるなら、どうして私にこの様な事が起きるんだろう・・・
主がいるなら、どうして沈黙されるんだろう・・・
主がいるなら、、って考えた事ありますよね。私は何度も考えた事があります。
私たちは自分に起こる問題や、世界の色々な出来事を見てその様に感じます。
戦争、病気、自然災害、家族や知人との別れ、理不尽な出来事・・・
「主がいるなら・・」と言う思い。
こう考える時は、決まって私たちにとって良くない事が起きた時、、「主がいるなら・・」と考えるのです。
良くない事が起きた時、主に対して問い詰めているのです。
「どうしてあなたは、この様な事をなさった(許された)のですか?」と。
まるで主が被告人で、私たちが裁判官・・
私たちの目に、良くない事が起きた時、私たちは「自分の弱さ」を痛感します。
自分の力では何も出来ないという「無力さ」を思い知らされるのです。
対処する能力、解決する能力、復活する能力・・がない事に落胆するのです。
そのような状態に追い込まれた時、私たちは、主の前にひざまずくか・・主に対して文句を言うのです。
しかし、主は沈黙を持たれる事が多いです・・
私たちが、主がいないのではないかと思わせる様な時間を与えられるのです。
主が与えられる「試練の時間」です。
私たちは人間なので、一つ一つの試練に対しての主の持たれる意味、計画を知る事は出来ません。
ただ分かっている事は、人生で何度もこの「試練の時間」が与えられ、その度に「自分の弱さ」を痛感させられ、
「主の不在感」を感じ・・「主の前にひざまずく時間」が与えられるという事です。
人生で何度となく、このような時間が与えられるのはどうしてでしょうか。
私たちが「自分の弱さ」を痛感させる為です。
私たちは自分が弱いという事を知っています。
しかし、今、私たちが知っている自分の弱さ・・ではなく、主の望まれているレベルまで自分の無力さ、弱さを知って欲しいのです。
自分が「無力」であると心底、感じさせ、自分では何もできない。どうする事も出来ないという事を。真に知って欲しいのです。
私たちが自分の弱さをどん底まで痛感する事によって、「主の強さ」を感じる事が出来るのです。
自分の弱さを知らない人は、主の強さを心から感じれないのです。
自分の弱さを感じれば感じる程、比例して主の強さを知るのです。
私たちは、日々の祈りで主の名を呼び、助けを求めています。
しかし、私たちは「癖」のように、自分の力で何とかしようと、問題に対処しようと心が動くのです。
主を信じると告白しながら、どこか心の深い所では、自分で何とかしようとする思いを捨てる事ができないのです。
そして限界まで頑張るのです。
どうしようも無くなってから、主の前に問題を持っていくのです。
主が望まれているのは、
問題が起きたその瞬間から・・初めから主に依り頼む心です。
全てを明け渡す必要性を、心底感じて欲しいのです。
だから主は、試みの時間を与えられたり、試みが私たちに与えられることを許されたりするのです。
私たちの感じる試みが、全て主から与えられたものなのか、それとも悪からの攻撃かは分かりません。
しかし、悪からの攻撃であっても、主が許されたので私たちが試みを受けているのです。
試みがどこから来たのか。なぜ私に来たのか・・理由は分からないのです。
試みの時間を過ごす時、私たちが望む事は、問題が解決し、苦痛や痛み、苦しみからの解放です。
少しでも早く解放される事を切に望みます。
しかし、本当はもっと大切な事があります。
試みの時間を通して「私に何を教えようとしているか」という事を知る事です。
試みは、主からの「語りかけ」なのです。
主から、私に「語りかけたい事」があるから、、、心が動くのです。
心が動く時・・・(大きな問題ではなくても)悲しく感じたり、すごくうれしく感じたり、寂しさ、辛さ、無力感、喪失感・・
日常で心が動いた時・・・それらは主から私に、語りたい事がある時なのです。
自分の癖や習慣、性格のせい、自分と言う人間のせいだと片づけるのは良くないです。
仮に自分のせいで、直ぐに悲しくなったり、直ぐに落ち込んだり、怒りやすいのであれば、
その性質に対して、主が何度も語りかけを持っているのです。
日常で心が動かされた時・・立ち止まり主の語りかけに耳を傾けるべきなのです。
私たちは試みの時間を通し、心が粉々に砕かれるのです。砕かれてこそ、主の力を体験できるのです。
粉々に砕かれ、自分の弱さを感じた時・・
主の語りかけに必ず耳を傾けて下さい。
主がどうして試練の時間を与えらえたのか、それを求めないと、主が与えられる「試練の時間」が単なる「苦難」で終わってしまうからです。
これは勿体ない話です。
痛み、苦しみを通してその背後にある、主の意味、語りかけを得ないと、本当に生きる事が辛すぎる人生・・で終わってしまうのです。
今日も、自分の心が少しでも動いた時・・
主に心を向け「語りかけ」が何か求めて下さい・・
自分に大きな試みが来る前に・・小さな語りかけに耳を傾け、主との信頼関係を気付きたいです。
今日も、主と共に歩む一日をお過ごし下さい!