ですから、それを行っているのは、もはや私ではなく、私のうちに住みついている罪なのです。
私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。
私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。
もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。
そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。
ローマ 7:17-21
私のクリスチャンの友達で「主が、これは良くない!と示されている事から辞めれない。」
「罪から離れれない。分かっていても辞める事が出来ない」と、悩んでいる人がいます。
会う度に「どうしたら良いと思う?」と聞きます。
私たちは、これは罪だと分かっていて、しかも主がこれは良くない!と言われていると感じているのに・・・どうして辞める事が出来ないのでしょうか。
罪は、魅力的なのです。
罪は、私たちに喜びを与えてくれるのです。
罪は、私たちに満足を与えてくれるのです。
罪は、私たちの心を満たすのです。
私たちは、エデンの園ではないこの地で生きています。生まれた時から罪人なのです。
罪人は、罪を好むようになっているのです。
だから、罪を選んでしまうのは自然な選択なのです。
罪人にとって、罪は魅力的に見えるからです。
今日の御言葉に書いてあります。
私たちの内に罪が住んでいること。
私たちの内に善が住んでいない事。
善を実行したいと思っても出来ない事。
ですから、私たちは、自分で罪を犯す事を辞める事は基本的には出来ない存在なのです。
もしも、私たちが硬い硬い意志を持ち、心から「絶対に罪を犯さない」心から「絶対にあの罪を辞める」と誓い、本当に罪を犯す事が無くなったら・・・
どうなるでしょうか。
自分を誇るようになるのです。
自分は罪に勝った!という思いが自分に生じるのです。
罪が1つ無くなったとしても、その罪の席に「高慢」が座るのです。(怖い・・💦)
自分の努力で罪から離れる。硬い決心で罪を選ばない。というのが悪いことではないと思います。
しかし、本来、無理がある行為なのです。
私たちは、もともとが罪を犯す性質を持っており、自分でそれを制御できない存在であるという事を知るべきです。
罪は魅力的で価値があるように見えてしまう存在なのです。
私たちは、罪という属性を持っているからです。
磁石のプラスとマイナスが引っ付くように、引き寄せられる存在なのです。
大きな磁石を持っていると考えてみたら、引き寄せる力も大きく、それを外すのは困難です。
なかなか外す事が出来ない強力な磁石を、力いっぱい自分で外したとします。
そうすれば「やった!外せた!!」と自分の成し遂げた力を凄い!と思ってしまいます。
罪と同じ属性を持っている私たち。
どうすれば、罪に引き寄せられないようになるのでしょうか。
もっと強力に私たちを引き寄せる存在を持つしかないのです。
罪よりももっと魅力的で、自分の心を満足させるレベルのものではなく、自分の魂が喜ぶ存在を持つ事です。
「自分の魂が喜ぶ」という経験が必要です。
「自分の魂が喜ぶ」とは、今までに感じた事がない位、自分の内から喜びが溢れ出る喜びです。
もうこれは・・・主にしか、聖霊さまにしか与えられない喜びです。
この喜びを経験すれば、罪を引き寄せる力が小さくなります。(無くなる訳ではないです)
どうすれば、「自分の魂が喜ぶ」経験をすることが出来るのでしょうか。
私は「主を知っていく」という進行形の行為だと思います。
主がどういったお方なのか・・という事を知っていく事は、自分の中から喜びが溢れ出てくる行為なのです。
今まで、さっきまで気付かなかったけど、私たちが信じている主はこんなに素晴らしいお方だったのか! という事に気付くことです。
「主を知っていく」とは、主が私に持っている計画に気付く事です。
自分の人生に意味があると知っていく事です。
自分の過去の辛い経験に意味があったと気付く事でもあります。
では、どうすれば「主を知っていく」事ができるでしょうか。
日々のデボーションです。
聖書を読み、祈りの時間を持ち、賛美をする・・
長い時間、主と共にデボーションを通して交わる事は良い事です。
しかし、短い時間から始めても良いと思います。
交わりの長さは、自分の魂が欲する時間と比例します。(勝手に自然と長くなるというより、長く交わりたい!という思いは必要です)
聖書を読み、主がどういったお方なのか気付いていく・・という行為はとても大切です。
私たちは、主を信じる時、主が私たちの心を開かれ、信じる事が出来ました。
その信仰を持ち続けるのは、簡単ではありません。
私たちは信仰を持っても、罪という属性がなくならないからです。
私を主以外のものが、常に私たちを引っ張るからです。
「主を知っていく」という行為を繰り返す事により、「魂が喜ぶ」という経験を積み、何度も何度も、自分に記憶させる必要があります。
「主を知っていく」という行為が、私の内にある罪の磁力を弱めるのです。
「主を知っていく」とは、終わりがないのです。
どの様な素晴らしい信仰の持ち主であっても、聖書を知り尽くしている学者であっても、主を知り尽くす事は不可能であり、
私たち人間が「主を知る」というのは、何百、何千、何万、何十万、何百万・・分の1ぐらいしか、結局のところ悟れないのです。
私たちが信じている主は、それほど偉大であり、私たちの想像を遥かに超えた存在だという事です。
今日も・・主との時間を持ちましょう。
今まで知らなかった主の姿を1つ知り、罪に引き寄せられる磁力を弱めましょう。
今日も、主と共に歩む1日をお過ごしください!