怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。
エペソ4:26
随分前に書いたメモが聖書から出てきました。
「その者の怒り自体が、その人自身の愚かさを表している」と書いていました。
見た時にドキッとしました。どこかでその言葉を聞き、その時もドキッとしてメモをしたのを覚えています。
どこで書いたんだろう・・と記憶を辿ってみて思い出しました。
韓国の友達で教会でカウンセリングを仕事にしてる方がいます。
その人と話していて「カウンセリングに来る人の多くの問題の根は ”怒り” だ」という話を聞いた時に教えてもらった言葉でした。
人が ”怒り” をコントロールするのは本当に難しい・・と話していました。
「怒り」は、意思伝達が壊れ、人間関係をゆがめ、人々の喜びと健康にまで影響を与えます。
そして「怒り」と言う行為が生じる時、殆どの場合が、自分を正当化してしまうのです。
自分を正当化する為に、頭の中にいくつもの理由を並べるのです。
そしてその並べたてた正当性を確認して「どう考えても相手が悪い」と自分で納得し、
自分の怒りが正しい怒りであり、正しい主張であると思い込み・・相手を責めるのです。
責められた人は、自分が攻撃されていると感じ、本能的に自分を守る為に怒りで応答してしまう事が多いのです。
結局・・怒りは良い物を生みません。
怒った人も、怒りを受けた人も・・
怒りが人を成長させたりプラスになる事はないと思います。
今日の御言葉を見ても、
怒らないように、という勧めではなく、怒っても罪を犯してはなりませんという勧めです。
聖書を見ると、主が怒りを表されている箇所もあります。
一番有名なのは、過ぎ越しの祭りが近づいた時、宮で商売をしていた人達に向けてです。
主の御名が汚されているような言葉であったり、またそのような行為に対して、主は怒られたのです。
しかし、私たちの怒りの大部分は、自分が悪く言われている時に生じてしまっているのです。
自分の怒りが何処から来るのか・・によって今自分が何処に重きを置いているのかが分かります。
イエスさまの怒りは、神さまの愛と義が損なわれた時に怒りを示されました。
自分が今感じてる怒り・・どうして怒りを感じているのか。
自分のプライドを守る為・・
自分が傷つかない為・・
教会によく怒るAさんがいます。
口調に平安がなく、ちょっとした事からスイッチが入ったかのように怒るのです。
同じ教会の人も分かっているので、挨拶はしても親しげに話そうとしないのです。
巻き込まれたくないから・・
それをその人も感じています。
すると、一層その人は孤独になり、怒りが増すのです。「誰も自分に寄って来ない」と。
「最近どうですか?」と聞いても、堰(せき)を切ったように、色々な不平不満を話しだします。
圧倒されます・・・私には受け止め切れないのです(笑)
表情も、喜びに満たされた表情とは全く正反対で・・不満が溢れ出てるのです💦
表情にも圧倒されます・・💦
話を聞きながら「しんどうだろうな・・・自分でこの負のスパイラルを作り出し、その中から出てこれなくなって苦しいだろうな・・生きることが辛いだろうな・・」と感じました。
でもこの方、クリスチャンです。
教会には殆ど休まず来られます。
こんなにしんどそうでも、、
主による「平安」とは程遠く感じますが、
それでも主の何かに惹かれて教会へ来るのです。
主に留まっていたいと何かを感じてるのです。
もがきながらも、主の手を離さないのです。
そう思うと、「・・Aさんが、教会にずっと来てくれて嬉しい・・」と言葉がでました。
すると、不平不満がピタッと留まりました(笑)
「・・そんな風に思ってもらえて・・」と、続きの言葉が出てこない様子。
「嬉しい?(笑)」と聞くと頷いていました。
「イエスさまも喜ばれてると思うな・・ すっごく苦しい思いを持ちながらも、ずっと主の手を離さず握り続けてる姿、喜ばれてると思うな・・・。もちろん私もそう思う!」といい、一緒に祈って終わりました。
なんか・・大小の違いがあったとしても、私もAさんの姿と同じかも・・と感じました。
少し怒りをコントロールできるかどうかの違いかもしれない。
自分の中から出てくる感情的な怒りに対して、私たちは何の対策もないと破壊的になってしまいます💦
感情は高まるばかり・・
自分が感じる怒り・・それがどこから来るのか。一瞬、立ち止まって考えれるようになりたいです。
今日も、主の平安に包まれた一日となりますように!!
PS. 今日も、心を込めて一言、心の中でお祈りお願いします。(ブログ2023.04.28~)
「主よ。あの土地が私たち(LOVE BIBLE)に与えられますように!」