さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓についた。
彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」とみなで話し合っていた。
ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。
それで、墓の中に入ったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。
青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。
ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』とそう言いなさい。」
マルコ16:1-7
昨晩、聖書を読んでいて、ビックリしました💦💦
何度も何度も読んでいる箇所なのに、新しい発見が・・・!!
マルコ16章です。イエスさまが十字架で亡くなられ、マグダラのマリヤたちがイエスさまのお墓に向かった時の話です。
お墓の中にはイエスさまの遺体はなく、青年(天使)が座っていました。
そして天使は「ここにはいません。蘇られたのです。」と言われました。
そして天使は、
「ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』とそう言いなさい。」と言われたのです。
ここで、天使は「お弟子たちとペテロ」と言われています。
ペテロは弟子のうちの1人です。
どうしてわざわざ、お弟子さんたちとペテロ・・と言われたのでしょうか。
聖書の中の人物で、ペテロが一番好き。という方も多いと思います。
ペテロは情熱的で誠実でしたが、人間的な失敗が多い人でした。
イエスさまが十字架に架かる前、最後の晩餐の時に、「たとえ、ご一緒に死ななければならないとしても、私はあなたを知らないなどとは決して申しません。」と言いました。
この時、ペテロは大袈裟な発言をしたのではなく、心からそう思ったのだと思います。
しかし、イエスさまが言われた通りペテロは、イエスさまを「知らない」と3度言ってしまいました。
自分は絶対に死ぬことがあっても・・!という熱い信仰告白をしながら、短時間で目の前の恐怖にあっさりと負けてしまったのです。(本当に人間らしい姿・・)
ペテロが「知らない」と言った時、イエスさまは振り返ってペテロをご覧になられ、ペトロと目が合いました。ペテロは泣き崩れました。それを最期に、イエスさまは十字架で亡くなられました。
ペテロは心が張り裂ける思いだったのではないでしょうか。
ペテロは、人生が虚しく、生きる目的も自信も無くしたのではないかと思います。
今までに味わったことがないほどの後悔や、自責の念にかられたのではないでしょうか。
イエスさまはペテロのそのような心情をよくご存知でした。
天使を通して、「お弟子たちとペテロ」に伝えるように言ったのです。
わざわざ、ペテロの名を誇張しています。先ほども書きましたが、ペテロも12弟子のうちの1人です。だから本来ならば、「お弟子たち」と言えばいいのです。
もしもこの時、天使が「お弟子さんたちに伝えなさい」と言ったらどうだったでしょうか?
知らせを聞いたペテロは堂々とイエスさまの前に出れたでしょうか。
きっと、「自分は会う資格がない。」
「自分の様な者が弟子だとは言えない。」
「自分は裏切り者だ・・」
という思いが生じたと思います。
この短い「お弟子たちとペテロ」という一言に、主の愛を感じます。
「私はあなたを決して見捨てない」
「私はあなたを変わらず愛している」
その様なメッセージを感じます。
ペテロは大きな失敗をしました。
でも主はペテロを見捨てなかったのです。
ペテロが大きな失敗をしても、主の方からペテロに近づかれたのです。
主は、私たちを必ず受け止めて下さり、絶対に私たちを見捨てない方なのです。
「自分は絶対に死ぬことがあっても・・!」というペテロの熱い思いも、
人を恐れ、主を裏切ってしまうペテロの姿も、主は受け止めて下さるのです・・・
復活したイエスさまはペテロに3度「私を愛するか」と聞かれました。
主はペテロの失敗を通して、ペテロを砕かれ、そして強められたのです。
以前までは頼りない弟子でしたが、イエスさまが昇天されてからは目覚ましい成長を遂げ、力強い説教をするようになりました。
沢山の迫害に遭いながらも、以前とは別人のようにキリストを伝える者と変えられたのです。
私たちも、弱さを持ったまま主のもとに来て良いのです。
過去に主を裏切ったり、主に背を向けてしまったり、主から離れてしまった事があっても大丈夫なのです。
主は必ず受け止めて下さいます。
今日、もう一度、主のもとに帰る人が起こされますように・・・