イエスさまの「孤独と弱さ」【マタイ26:36-46】

2022年

36 それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」

37 それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。

38 そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」

39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

40 それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。

41 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」

43 イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。

44 イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。

45 それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。

46 立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」

マタイ26:36-46

改めて、この個所を読むと、凄く胸が苦しくなりました。

今日のこの箇所は、イエスさまが十字架に死なれる前夜の話です。

イエスさまは、十二弟子と一緒に、最後の晩餐をされ、街を出てオリーブ山に行かれました。

その山の「ゲッセマネ」という場所でイエスさまは、三時間ほど祈られたのです。

その後、イエスさまを売り渡した弟子のユダと、群衆達がやって来てイエスさまを捕らえ、朝まで裁判が行われ、翌朝に十字架にかけられるのです。

イエスさまは、十字架にかかる前夜に、ゲッセマネで祈られました。

イエスさまは、堂々と恐れず勇敢に立ち向かうという姿で、前夜を過ごされたのでしょうか?

今日の聖書の箇所には、私たちは、初めて知る「主の弱さ」があります。

「悲しみのあまり死ぬほどだ」と言われているのです。

死にそうなほどの悲しみに、打ちひしがれていました。刻々と近づいている十字架を前に、悲しみに押しつぶされそうなっておられました。

それを隠すこともなく弟子達にお見せになったのです。

36-38節に、三度も「一緒に」とあります。悲しみに押し潰されそうになり、弟子たちに、一緒に祈るように言われたのです。

しかし、弟子たちはこのようなイエスさまの姿を目の当たりにしながらも、イエスさまと共に祈る事もせず、3度も眠ってしまうのです。

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」とイエスさまは言われました。

イエスさまの十字架の死は、堂々と恐れず勇敢に立ち向かったのではなく、「悲しみ」であったことです。

「恐怖」や「苦しみ」ではなく「悲しみ」でした。

天の父なる神に見捨てられたからです。これは、私たちの想像を超えた悲しみだと思います。

イエスさまも、泣き、悲しみ、渇かれたのです。

苦しくて苦しくて、死ぬほど辛い時に、愛する弟子たちに一緒に祈るようにお願いしたのに・・・誰一人起きて、イエスさまと共に祈れなかったのです。

いつも励まし、愛して下さったイエスさまに対して、誰一人寄り添う人は居なかったのです。

そればかりか「私はあの人を知らない」とまで拒絶をされたのです。

イエスさまは、私たちが経験する以上の悲しみを経験されたのです。

天の父にも、愛する弟子たちにも捨てられたのですから。

イエスさまは「出来ますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られました。

イエスさまは、十字架に架かる為に、この世に来られたという目的を知っておられました。

それであっても、「潔さ」など全くありません。

この期に及んで、十字架を負わずに済ませられるなら取り下げてください、と祈られたのです。

包み隠す事も出来ない程、悲しみの中におられたのです。

それほど、イエスが受けられた十字架の苦しみは深かったのです。

数時間後の十字架を想うだけで、立っていられないほど、深くすさまじかったのです。

 

後、イエスさまが復活されて、イエスさまは、誰に対しても文句を言いませんでした。

私だったら「どうして、私があれほどしんどい時に、お願いしたのに・・・一緒に祈って励ましてくれなかったの??」と詰め寄ると思います。

愚痴を言わないばかりか、「私はあの人を知らない」と言ったペテロを、癒し励まします。

何か、想像しただけで・・・泣けてきます。

私の罪を許すために、そのような悲しさの中を通られたのです。

今からでも・・・ もっともっと、主を沢山愛する者となりたいです!!

今日は、沢山賛美をし、主に愛を伝えます。

皆さんも、主に愛を伝える一日となりますように・・・

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