それから、イエスは献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。
そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。
みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」
マルコ12:41-44
ある学生さんが話していました。
「自分は、将来、献身するというより、自分はいっぱい儲けて、教会に沢山献金できる人になりたい」と。
働く意欲が大いにあり、その能力を生かして、主に、教会に捧げれる人になりたい・・・その思い分かります!
また大人のクリスチャンの方々も、時折この様な話をします。
「もっと儲かったら、献金沢山できるのに・・」「もっと儲けて、教会を大きくしたい」と。この気持ちも分かります。
うちの次男もこの様に言っています。「お兄ちゃんが牧師となって教会を持って、僕はすっごくお金を稼いで、お兄ちゃんの教会を建ててあげたい」← これを聞いて兄大喜び(笑)
皆が、純粋な思いを持っての発言です。これが間違えているとは思いません。でも、これが正しかと問われれば・・・ちょっと違うかも・・と思います。
私が小学校低学年ぐらいの時に、母親がこんな話をしました。
「誰かに何かをあげる時、、、お友達とか神さまに。自分のいらない物をあげたらダメだよ。自分にとって大切なものをあげるようにしてね」
これを聞いた時に「え・・・大切なもの? 大切なものをあげたら、自分のがなくなる・・・💦」と言ったら
「大丈夫。神さまがもっと大きなものをくれるから」と言いました。
「大切なものをあげるのは、難しい・・・」と言ったら、「そーよね。大人も難しいのよ。でもね。これは凄く大切な事だから、大きくなっても覚えておいてね。」と言っていました。
今でも時々思い出します。
確かに・・・聖書を読むと、自分が持っている最大のものを捧げている人物がいます!
今日の聖書の箇所、「2レプタ」を捧げた女性。2レプタで100円位だと言われています。しかし、このレプタという貨幣より小さい硬貨はないそうです。ですから、僅かなお金だと言えます。
しかし、主はその女性の姿を見て「誰よりも多く捧げた」と言われました。
次に思い出すのが「5つのパンと2匹の魚」です。(マタイ14:13-21)
男性だけで5000人、その他に女性も子どももいました。少年が自分の食べ物を差し出したのです。少年も凄くお腹が減っていたはずです。少年の一食にしか過ぎない、少ない食料・・・しかし少年にとっては、これが持っている全ての物を捧げたのです。少年が捧げ、主が御業をなされたのです。
また、マリヤは「ナルドの香油」を捧げました。
マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった、家は香油のかおりでいっぱいになった。(ヨハネ12:3)
これは何と・・・300日分の日当だと言われています。マリヤはイエスさまが十字架に架かる前にナルドの香油で主の足をぬぐったのです。
特に、このマリヤが捧げたナルドの香油・・香油の香りが家中に広がったと書かれてます。
イエスさまが、十字架につけられようとしているこの週、特に、人々の偽りや企み、ねたみ、裏切り、それは人間の汚いものが溢れてたのではないでしょうか。
マリヤのイエスさまへの感謝(自分の兄弟を蘇らせて下さった)、尊敬、賛美の思いで、家中を覆ったのです。
2レプタの女性も、5つのパンと2匹の魚の少年も、ナルドの香油のマリヤも・・・ 今、自分が持っている物のなかでベストなものを捧げました。
「もっと儲かったら捧げる・・・」という思い。自分の中の誠実な思いだと思いますが、自分が思い描いている位、自分が納得出来るぐらい稼げるでしょうか・・・
稼げは稼ぐほど、「もっと」という思いが増えてくるような気がします。 一生、捧げる事が出来ない可能性が高い気がします。
韓国の教会に居る時に、新しく商売を始めて、牧師先生、教会の沢山の人々がその方の仕事の為に祈ります。
数か月後、商売が波に乗り大成功したら、、、決まって、教会に来なくなります💦
この様な方を何人も見ました。
人間は、多分、成功して手元に大金が入ると、献金するのが難しくなるんだと思います。
仕事の賜物を授かっている人は、その才能を生かし、豊かに儲け、豊かに捧げる事を目標にするのは、間違えてはないと思います。
ただ・・・ 「儲けてたら捧げる」のではなく、「今ある中から捧げる」の方が、主は喜ばれるように思います。
主は、献金のが額が少ないから、御業を行えない方ではないからです。
主は、献金の額を、毎月心配する方ではないからです。
献金は後回しにはしない!です。
イエスさまが目を留められたのは、
沢山ある中から豊かに捧げた者ではなく、持っていない人が自分のベストを捧げた姿に、目を向けられたのです。
今日は、母の言葉を思い出し、自分は大切なものを主に捧げる事ができているだろうか。
また隣人に対しても、大切なものを分けることが出来ているだろうか。考える時間となりました。
自分のベストを主に捧げ、人にも分ける事が出来るクリスチャンになりたいです・・・
今日も、主の恵みの中でお過ごしください!