争いの初めは水が吹き出すようなものだ。争いが起こらないうちに争いをやめよ。
箴言17:14
今日の御言葉を読む度に、思い出す話があります。
トルストイの「火は早めに消さないと」と言う民話を思い出します。
昔から、仲良く隣りあい、互いに助けあって暮らしていた 農家の家族の話です。
一方の家の庭で、鶏を飼っていました。鶏は毎日、卵を産みます。そしてある日、鶏が隣の家の庭に入り卵を産み、戻ってきたのです。
お互いの家族は、うちの鶏が「卵を産んだ」「知らない。産んでいない。」水掛論となり、にっちもさっちも話が解決へと進みません。
そして、お互いがあれこれと、あることないこと互いに訴え合い裁判が続き、お互いの生活はメチャクチャに破壊されてしまいます。
結局、片方の家の人が、隣の家に火をつけたのです。そして風が吹き、火をつけた方の家にも、火が燃え移ったのです。結果的には、村の半分がこの火事でなくなってしまったと言う話です。
平穏な生活が、破滅にまでつながるストーリーに、現代の国際社会の縮図のようです。
疑心や憎しみというものは、膨らみ出したら際限がないのです。
始まりは、卵一つなのです。
自分は損をしたくないし、自分が勝ちたいのです。
「怒り」が発動すると、それをコントロールするのが難しいようです。
どうすれば「怒り」をコントロールできるのでしょうか?
そもそも、「怒り」が悪いイメージがありますが。怒りは悪い感情ではないようです。
「怒り」という感情をコントロール出来なくなるから、問題が大きくなるのです。
聖書を見ると、イエスさまも、怒りを現されている所があります。エルサレムの神殿で商売している人を怒り、商人たちを追い払っています。
「怒り」の始まりはなにでしょうか? どうして怒りが始まるのですか?
「どうして?!」という「問い」「疑問」から始まっているのです。
旧約聖書に出てくるモーセやアブラハムも、天を見上げて「神様、どうしてですか?」と問いをぶつけていますし、イエスさまも十字架に架かる前に「どうしてですか」と問われています。
「問い」を持つというのは「答え」を望んでいる状態なのです。
この「問い」が主に対してのものであれば、「問い」は「祈り」なのです。
「どうしてなのか、本当に教えて欲しい・・」という切なる祈りなのです。
「怒り」を感じた時は、「本当は自分は何を問いたいのか。何を知りたいのか」と考える事が大切です。
感じた瞬間に、「本当に問いたいものは何か」を考える事が出来れば、自分の怒りはコントロール出来るのです。
「怒り」から、立ち止まり、「祈り」に感情を治める事も出来るし、
「怒り」を放置し、後戻りできない結果まで行ってしまう事も出来るのです。
普段から「怒り」に対して祈りが必要ですね。
今日も、「怒り」をコントロールし、「祈り」の1日となりますように!