その一面の露が上がると、見よ、荒野の面には、地に降りた白い霜のような細かいもの、うろこのような細かいものがあった。
イスラエル人はこれを見て、「これは何だろう」と互いに言った。彼らはそれが何か知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これは主があなたがたに食物として与えてくださったパンです。
主が命じられたことはこうです。『各自、自分の食べる分だけ、ひとり当たり一オメルずつ、あなたがたの人数に応じてそれを集めよ。各自、自分の天幕にいる者のために、それを取れ。』」
そこで、イスラエル人はそのとおりにした。ある者は多く、ある者は少なく集めた。
しかし、彼らがオメルでそれを計ってみると、多く集めた者も余ることはなく、少なく集めた者も足りないことはなかった。各自は自分の食べる分だけ集めたのである。
モーセは彼らに言った。「だれも、それを、朝まで残しておいてはいけません。」
彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝まで、それを残しておいた。すると、それに虫がわき、悪臭を放った。そこでモーセは彼らに向かって怒った。
出エジプト16:14-20
長く、エジプトの地で奴隷として過ごしていたイスラエル人たちを、モーセはファラオ王に解放を求め、エジプトの地を脱出する話です。エジプトの大軍がイスラエル人を捕えようと迫って来た時、イスラエル人の目の前は、紅海。絶体絶命の危機に差し掛かった時に、モーセが海に向かって手を伸ばすと、紅海が左右に壁となって分かれ、イスラエル人が分かれた海底を渡りきると、紅海は元の海へ戻りました。奇跡を体験したイスラエル人は賛美をし喜びましたが、直ぐに飲む水がないと不平不満を言い出します。苦い水を甘い水に変えられる奇跡をまた体験しました。しかしまた次には、空腹をモーセに訴えるのです。そして、朝には「マナ」という不思議な甘いパンを、夕方には大量のウズラの肉が与えられるお話です。
聖書を読むと「人間って本当に疎かだな・・」と思います。
絶体絶命の危機にさらされ、目の前の紅海が左右の壁となって分かれ、海底を渡って逃げるという大きな奇跡を体験しました。全てが渡り切った後、イスラエル人を追いかけて来ていたエジプト人たちは、海に飲まれてしまいました。
こんなにも大きな奇跡を体験していても、危機から逃れた後は「水がない」と不満をこぼすのです。確かに、水がない状態とは生命の危機を感じたかもしれません。 主は、イスラエル人に、単に飲み水を与えられたのではなく、苦い水が甘い水へと変化するという奇跡も体験させたのです。
しかし、空腹を覚えるとまた不平不満を投げかけるのです。
よくこんな話を聞きます。「今の時代にイエス様が居てくれて、目の前で奇跡を見せて下されば、もっと簡単にイエス様を信じられるのに・・」 私もよくその様に思ったことがありました。
しかし、聖書を読むと、奇跡を目の当たりにすれば、体験すれば、信仰を持てるという訳ではなさそうです。
この出エジプトの話にしても、大きな大きな奇跡を何度も体験しています。
しかし、人間は問題が生じると、目の前にある事柄だけに集中してしまい、経験した奇跡が薄れるようです。
私たちの信仰も同じようなことが言えます。 自分の願いが満たされ、物事が上手くいく時は、「主よ感謝します!!」と主を感じ、愛されていると感じる事ができます。
しかし、物事が上手くいかなくなると、過去の恵みは薄れ「主は本当に居るのか」という疑問さえ頭を過ぎるのです。
主は空腹を訴えるイスラエル人に対して、「マナ」をお与えになりました。どうして「各自は自分の食べる分だけ」と言われたのでしょうか?
この状況に身を置いている人は、不安が沢山あると思います。今回は食べ物に有り付けたが、次はないかもしれないという不安はあったと思います。
だから明日の為にも・・と多めにとっておいた人が居たのだと思います。
主は「マナ」を通して、とても大切な真理を教えておられます。
つまり、主は、私たちに必要以上のものを持つべきではないと教えています。
主の恵みは、明日の為にとって置く必要はないのです。
主の恵みは、その日その日に与えられるのです。
「今日の分の祝福は、今日取りに来なさい。」
「一日も欠かさず、毎日私の元に来て今日必要な祝福を、今日貰いに来なさい」と言われているのです。
このマナは、主イエスを象徴しています。
主イエスは、ご自身のことを「天から下って来たパンです。(ヨハネ6:58)」と言われました。
マナを今日必要な分を集めなさいと言われたように、日ごとに集めなければならないのです。
つまり、私たちも主イエスと交わりを、日々持たなければならないということです。
日々主イエスと交わり、今日生きて行く為に必要な、「いのちのパン」を頂きましょう!