生きる目的はありますか?
私はイエスキリストに出会う前は、何のために生きているのか、分かりませんでした。
生きる目的が分からなく、苦しかった時期が長かったです。
どうせ、いつかは人間は死ぬのに。生まれた時から死に向かって生きているのに。
一生懸命頑張る必要がどこにあるのか。もし、努力の末、何か大成功を収めたとしても、人間には終わりがあり、それは虚しく手放さないといけない。
目的が分からないまま、心は虚しさで一杯でした。そんな中でも、期待以上の学校へ進学で来た時、就職できた時は、満足を覚えました。人生が楽しくも感じました。
しかし、それは一瞬です。
思う通り自分の人生の駒をすすめれた時、充実感を得ますが、それは時間と共に消えていきます。時間が経てば、虚しさが再び私の心を支配するのです。結局は同じです。同じところをグルグルと回っている感じです。満足を覚えたところで、また虚しさが私を覆ってきます。
教会に行き始めて、この御言葉に出会った時、
「なるほどね。神様が人間を造ったから、”私たちは神の作品”なのか・・」と単純に思っていました。
主は私たち人間を「神様の形に似せて作られました(創世記1:20)」
イエスキリストも神の形だと聖書に書いてあります(コロサイ1:15)
「私たちは神の作品」とは、そこにはどんなことが意味されているのでしょうか。
数多くの意味があると思いますが、
主の作品には、「神の主権」「神の愛」「神の目的」が込められていると思います。
誰かが指示をして主が造られたのではなく、誰かの助けを借りて主が造られたのではなく、主が計画を持って創造されたのです。
作品には愛情を込めて作るものです。単なる「製品」として造ったのではなく「芸術作品」として造られたのです。
また目的を持って造られたのです。今日の御言葉「良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られた」とあります。良い行いをする為に・・とあります。主が私たちを造った目的は「良い行い」をする為なのです。
このエペソ2:10を読むと、私たちの生きる意味が分かります。
私たちが生きる意味は、私側にあるのではなく、主の方に、生かす目的があるのです。
作品の作者が目的を持って創造されたのですから。
作品が自ら、存在意義を探すのはおかしな話です。存在意義は作者が持つものです。
この事に気付いて以来、自分に生きる目的が分からなくても、それで落ち込む必要はなくなりました。生きる目的は主が持っていて下さるからです。
聖書は、私たちは神の作品だと、記されています。神の作品として、私たちは造り主の意図した使用目的を果たして生きていくのです。
「良い行いをする為」とあります。
救われた者は「良い行い」に歩みます。
行いからは「救い」は出てきませんが、「救い」からは「良い行い」が生まれてくるのです。
「良い行い」とは、何か特別な「善行」のことではなく、
神に信頼し、神を愛し、神のためにする日々の生活のことです。
人は、どのような自己認識を持っているかによって生き方が決まります。
私たちは神の作品です。
自分には価値がない、と思う時、自分は「神のかたち」として造られているのだということを思い出してください。
今日も主の作品として、一日を主と共に歩みましょう!