あなたを贖う主、イスラエルの聖なる方はこう仰せられる。「わたしは、あなたの神、主である。わたしは、あなたに益になることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。
イザヤ48:17
教会で、礼拝で、信仰書で、、「主は私の助け主」「主が御手を差し伸べて下さる」「主が導いて下さる」「主に依り頼めば・・・」などと、良き聞きます。
体験し実感出来ているでしょうか?
自分が体験し実感がないと、自分の信仰生活にプラスになりません。
どうしたら体験できるでしょうか?
求めないと体験できません。求めないと気付きません。
また主がどういったお方なのか知る必要もあるように思います。
主を意識し、日々のデボーションだけでなく、一日に何度も心を込めて主を呼び、一日に何度も心を主の元に帰らすのです。自分の中心が主から離れないように。
こういった信仰生活がとても大切です。 自分の頭の中が、どれぐらいの割合が主を占めているでしょうか? 主を思い出さない日もある・・・となると、とても悲しいですよね。
将来に不安があり、こうなったらどうしよう。ああなったらどうしよう・・と頭の中がそんな想像が割合を占めていないでしょうか。
日々、将来に対する計画や、想像、対処、決定・・などが頭の多くの割合を占めている場合、その事に必死になります。より良い選択をしようと、頭をフル活動させるのです。フル活動させている頭の中に主はいません・・・ 自分だけで必死に考えるているのです。
どんなに忙しいくても、日々食事をします。水も飲みます。どうしてでしょうか?
生きて行く為にです。体に栄養が無くなると生きていけないという事を知っているからです。
これと同じです。
主との交わりがないと、霊的な部分が曇っていくのです。よどんだ活気のないものとなってしまうのです。
そうなると、日々の生活は決まったローテーションの様に、深い考えなく日々を過ごすのです。
毎日歩いている道を今日も変わりなく歩くように、もしくは夢遊病の様に日々を過ごすのです。
夢遊病は、脳が眠ったままで体だけが覚醒しています。寝ぼけた状態で、歩いたり食べたりするそうです。よく朝目覚めた時は、本人は全く記憶にないそうです。
夢遊病のような人生を送らないようにしたいですね。
私に益なることを教え、私が歩むべき道に導いて下さる主・・・
目の前の状況が、自分の目には望ましくない状況であったとしても・・・それらは、益となる通り道に過ぎないのです。
しかし、主との交わりがない者にとっては、「自分にとって益になった」と言う御業に気付かないのです。気付かないというのは、「主の導きを得ていない」と感じています。
主の御業は、後になって気付くことが多いです。振り返る余裕もなく、また振り返りをしないで過ごすのは「恵みを貰い損ねている」状態です。
主との交わりを増やし、主がどういったお方なのか聖書を通して祈りを通して知っていきましょう。
そうすれば、降り注いでいる恵みに気付くことが出来ます。