あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。
キリストの中に根ざし、また建てられ、また、教えられたとおり信仰を堅くし、あふれるばかり感謝しなさい。
コロサイ2:6-7
キリストの中に根ざし、建てられていく・・・主と共に歩む・・・
主と共に歩む人生と、主がいない人生と何が違うでしょうか?
罪の赦しと天の御国。それ以外に違いはあるでしょうか?
主に罪の告白をし、赦され御国へのチケットを手に入れれば終わりでしょうか。
主との交わりを大切にする人と、祈るのは教会に行った時だけ・・・
この信仰生活に違いはあるでしょうか?
今日はこの御言葉を読んで思い出したことがありました。
韓国に留学していた時の話です。神学大学で夫と出会い、結婚を悩んでいました。
外国人と結婚するとは思ってもなかったからです。
27歳で韓国へ行き、語学学校に行って韓国語を学び、それから神学校へ通い、将来的には日本に戻ってから、誰かと出会い、結婚したいと思っていました。「日本に帰ってくるのに何年かかるんだろう?」と考えもしました。しかしそれ程、結婚願望があった訳でもなかったので、友達が結婚し、子育てを始めている時に留学で出来たんだと思います。「結婚はいつになるか分からないけど、将来出来たらいいな」としか考えていませんでした。
外国人と結婚するのか・・・と思うと(今の様に韓流という言葉もない時代)親の事も気になります。少し厳格な家だったからです。 (どうして結婚相手として韓国人の夫を考えたかはまた別の機会に書きます。)
「多分・・・絶対・・? 導かれてる・・・ 主はこの人!って言ってるように思う・・・でも外国人か・・・」と何度も思い悩みました。
私は、27歳で娘が留学することに対して、両親が私の結婚を心配してるのは分かっていました。だから留学する時に「絶対に、お父さんとお母さんが気に入る人と結婚するから!」と言って家をでました。それでいて・・・外国人? どう思うだろう・・・多分、難しいよね・・という思いが頭の中をグルグル・・・ 夫のご両親も、「日本人の嫁」を喜ばれないだろう。私の両親より、もっと嫌な思いをするかもしれない・・・と思っていました。
思い悩む中、夫のお父さんが亡くなられたのです。当時私は、ソウルに住んでいたのですが、夫の実家は田舎でした。夫の大学の友人からその知らせを聞きました。そして彼が「一緒にお葬式に行こう!」と言うのです。「私が行っていいのか分からない」と言うと「他にも大学の友達大勢いるから大丈夫」というので、一緒に車に乗って田舎にある夫の実家に初めて行きました。
田舎だからなのか、当時はお葬式は1泊2日でした。夜を共に明かすのです。夫の妹たちが私の存在に気付いて、色々と話しかけてくれました。好意を持って話しかけてくる事に嬉しい気持ちと、本当に夫と結婚して、私がこの妹の義姉になるのか?という複雑な思いが増しました。
そして夜を明かし、次の日の朝、大学の友達たちと車でソウルへ帰ることになりました。
一人ずつ、喪主のお母さんに挨拶をしてから帰ろうと言われました。夫の友人に「なんて挨拶すればいいの?」と聞いたら「ソウルへ帰ります・・だけで大丈夫」と言われ、順番に挨拶する為、列に並びました。
段々と私の順番が回ってきます。もしかしたら、この人がお義母さんになるかもしれない・・と思うとドキドキしてきました。本当にこの人がお義母さん??何度も考えました。
そして一瞬祈りました。
「神様! この人が私のお義母さんになる人であれば、この人が私の左肩を二回叩きながら”気を付けて帰って”と言いますように・・」ほんの一瞬、祈ったのです。私が正しく判断できるように助けて下さいと言う思いを込めて。
ついに私の番がやってきました。 目の前のお母さんを見て怖くなったのです。
「もし、左肩を叩かれたらどうしよう・・」そう思うとお母さんに近寄ることが出来ず、挨拶も「ソウルに帰ります」と最後まで目の前に立ったまま言うのではなく、走り去るように、少し離れた処から挨拶しながら身をかわし、走って車の方へと行きました。
「あー-!! 怖かった・・・!! 変な祈りをしてしまった・・・もし肩叩かれたら・・・どうするつもり?? 変な祈りはしたらダメだわ・・・」と思いつつ。お義母さんから離れたところで、挨拶中の他の友達を待っていました。
全員が挨拶を終え、そろそろソウルに戻ろうと友達に声を掛けられた時、夫が私の所に来ました。「遠いのに来てくれてありがとう。」といい、私が乗る車の所まで二人で歩きました。
「じゃ、帰るね」と言って車に乗ろうとした時・・
後ろから左肩をポンポンと二回叩き「気を付けて帰って」と言うのです。
びっくりして振り返ると・・・お義母さん!!
帰りの車の中で、私は自分の左肩が凄く重く(笑)
反面、逃げた私を、主が逃がさなかったことが楽しくも感じました。
主は本当に面白いユニークな事をして下さいます。私好みのユニークさ。
この話を、結婚してから夫に話しました。
夫もこの場面を覚えています。
単に肩を叩きながら「気を付けて帰って」と言うのは、有り触れた行動です。
だから、夫にとっては特に鮮明に記憶に残っている訳ではない出来事です。何となく覚えているけれど、その有り触れた行動が、私にとっては、凄く意味のある、重みのある出来事だったのです。
答えを求めて祈って、でも結果を見るのが怖く逃げて、でも知らない間にお義母さんが近寄って来てて、逃げるタイミングもなく肩を叩いたのです。
あの時、私も夫も、お義母さんも大学の友達たちもその場に居ました。
でも主の答えを貰ったのは私だけです。主の導きを体験できたのは私だけでした。
夫も確かに一番近い所で見ましたが、それが導きだとは分かりませんでした。
「やっぱり、祈らないと主の導きを目にしても見えてないんだな・・」と二人で話しました。
どうしたら主を体験できる人生になるでしょうか。
私たちは、キリストに根差さないとダメなのです。根差すとは、「植物の根が土の中にしっかり延びる。また、定着する。」と言う意味です。
植物が地に根差し、栄養を得るように、私たちも主にしっかりと根差さないと枯れてしまいます。主にしっかり根差し、主の光を浴び、成長(建てられる)するのです。主に繋がり主の中で生きるのです。
聖書の時代ではない現代も、沢山の所で主の奇跡起こっていると思います。
でも人は単なる「自然現象」や「偶然の一致」もしくは「よくある日常」だと思い、記憶にも残らないのです。
見ていも、見えていない状態なのです。
今日も、主と交わりを大切にし、心の中にある全ての事を祈りましょう。
何を祈っても大丈夫です。「こんなお祈りはダメだよね・・・」なんて事はないです!
祈ったらダメな祈りなんてないですし、「こんな祈りは厚かましい」と思う必要もないです。
祈って、主の導きを体験しましょう!