いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。
ピリピ4:4
聖書の中に「いつも喜んでいなさい」という聖句がいくつかあります。
いつも喜んでいますか? いつも喜ぶことが出来ていますか?
喜ぶことが難しい状況ってありますよね。
私たちはどんな時に喜べないのでしょうか?
自分の願い通りの状況にならなかった時、私達は喜びを失います。 「ああ・・こうなっていればよかったのに」と言って、私達は喜こべず嘆くのです。
自分の回りの人々の存在・言葉・行動によって、私達の喜びは奪われます。
欲しいものを手に入れれ無かった時。持っていた物を失った時。持ち物の有無が私達の喜びを左右します。
将来に対しての不安を感じた時。これからどうなるか、どうすればいいのかという不安が喜びを奪います。 喜びどころか、迷い、心配し、動揺し、気がふさぐのです。
これらのことは誰もが経験することです。喜びは疎か、嘆き悲しみ、どん底だと感じることもあります。
でも聖書は「いつも喜びなさい」と書いてあります。
主は私たちを創造した時、私たちが喜びに満たされて生きていく事を望まれたからです。
喜ぶべる条件があるから、喜ぶのでしょうか? 条件が揃わないと喜べないのでしょうか?
喜びも感謝と同じで、ある時は、自分の行動が先です。条件が揃わなくても自分から喜びを探すのです。笑って見せるのです。
子どもが、「勉強は楽しくないからしない」と言ったらどうでしょう? 楽しく感じるまで何もしないのでしょうか? 勉強はしてみて、学ぶ楽しさを感じた経験がある子が「勉強は楽しい」と学ぶことへの楽しみを感じるのです。「楽しく感じたら勉強する」と言ったら、多分ずっと勉強する機会を逃してしまう事になりますよね。
我が家は、里子を育てた時期がありました。 とても手がかかり、私は精神的にも疲れ果てました。何をしても手を噛んだり物を投げたり、暴言を吐きます。彼なりのそうしてしまう理由があるからだと思いますが。そんな彼を愛することが難しいです。でもね。「愛してるよ」「大好きだよ」と言い続けるのです。心を込めてそれを伝えれれば一番良いのですが。私の場合は、心は伴わず「大好きだよ」と繰り返しました。これでいいと思います。心は後で付いてくるのです。ずっと「大好き」と繰り返すと私の心も徐々に変わってくるのです。子どもの心も変わってきます。(時間はかかりますが)
「行動療法」という治療法があります。
心と身体は影響しているので、行動を変えると、気持ちにも影響があるのです。
喜ぶことも同じです。喜べることを探してみて下さい。
今日もちゃんと目覚める事ができ、愛する家族の顔を見る事ができました。これは凄く凄く大きな喜びです。今日も清潔な綺麗な水で顔を洗える事。毎日歯を磨けること。お白湯を頂けること。今日も子どもが元気であること。今日も朝ごはんを食べれること。・・・沢山あります。
全てが当たり前ではなく、喜べることです。「喜べること」=「感謝すること」ですね。
私達が喜びを失ってしまう原因は、
私たちの喜びの土台を、過ぎ行くもの、変化するもの、頼りないものに置いているからです。
しかし、喜びの土台を、決して過ぎ行かない永遠のもの、変わらないもの、絶対に信頼して裏切られないものに置くならば、私達の喜びはどんな時にも奪われないのです。 聖書はその永遠に変わらない信ずべきものは神でありキリストであると教えています。
神様が私達に下さる本来の人生は、
何ものにも奪われない「深い内的な喜び」で満たされている人生です。
私たちが子どものように喜び、一つ一つの恵みを味わいながら一日を歩む時、主もこの上なく喜ばれています。
私たちが喜びを抱き歩む姿は「主への信頼の表明」です。
私たちの心を主に向ければ向けるほど、私たちの人生は、増々豊かになります。