これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
エペソ6:16
自分の中に隠れた感情がないか、時折自分の心の中、心の底の方をよく見てみよう。
今までの人生の中で、沢山の感情があったはず。すごく傷ついたこともあるだろうし、これぐらい大丈夫、大したことはない。と自分で自分の心を整理して、大丈夫と蓋をしてしまった感情も沢山あったハズ。
これぐらい大丈夫と言う蓋。大した事ないという蓋。仕方がないと諦めた蓋。自分が悪かったんだと整理した蓋。誰もが経験することだからと閉めた蓋。自分にはできないと閉めた蓋。運が悪かったと諦めて閉めた蓋。次こそは失敗しないようにすれば大丈夫と自分を言い聞かせて閉めた蓋。運命だと閉めてしまった蓋・・・
人それぞれ、忘れらない心の傷があると思います。それは心がずっと痛むので癒されることを常に望むでしょう。クリスチャンであれば、主からの癒しを祈るでしょう。もちろん、心の傷は主の癒しを受けるべきだと思います。
忘れられない心の傷以外の、これぐらい大丈夫と蓋をした感情も主の前に心を開放して祈るべきです。
これは、本当に大切なことです!
今まで味わった思いを、すべて主の御前に持って出ないといけないです。本当は感じたくなかったもの全て・・・
不安に感じたこと、不快に感じたこと、寂しく思ったこと、残念に思ったこと、無力に思ったこと。などなど・・「こんな小さなことに傷ついている場合じゃない」と蓋をして、自分から感情を押し込めてしまったもの。感じないふりをしてしまった感情は、無くなることがなく、心の底に溜まっています。
心の奥底に隠した不安などは、溜めておくのは健康的ではないからです。いつの日か、不安や恐れとなって自分を襲ってくる時があります。
今日の御言葉にあるように、私たちは「信仰の大盾」を持つべきです。思いもよらず降りかかてくる恐れや不安、悲しみと言うものがあるからです。信仰の大楯とは「主のいやし」だと思います。主からの癒しの経験が多いほど、自分を守る、立派な信仰の大楯になると思います。
私は時々、昔の写真を見るようにしています。昔の写真を見ると、色んな事が思い出されます。蓋をしてしまっていることさえ忘れている感情を思い出す為です。小さな感情に蓋をしてしまったことを思い出したら、それについてその都度、祈ります。
これは、是非やってみて欲しいです。 小さな蓋をした感情を主にお見せしたら、自分が当時の小さい自分になったような気がします。そして、本当は蓋をしたくなかったんだと気付きます。小さい自分が涙を流します。主も私が小さかったあの時、私が自分の心に蓋をして必死に生きようとしていたのをご存じだったんだと感じます。
この小さな繰り返しが、本当に大きな力へと変わります。まさしく「信仰の大楯」となります。
主があの時も一緒に居て下さったんだと感じることが出来ます。