そのとき、いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木は実をみのらせず、オリーブの木も実りがなく、畑は食物を出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。
しかし、私は主にあって喜び勇み、私の救いの神にあって喜ぼう。
私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。指揮者のために弦楽器に合わせて。
ハバクク3:17-19
「主から来る喜び」について考えてみました。
もともと「喜び」とは、自分の思い通りに事が運んだり、成功したり、満足した状態に起こる感情。
誰もが「喜びの多い人生」を望みます。
「喜びが多い人生」とはどんな人生でしょうか。
多くの人が考える「喜びが多い人生」は、まず、経済的に余裕があり、したい事が出来る状態。愛されている状態。愛する人が居る状態。願った通りに成功したり、満足できる状態。人に羨ましく思われる存在になったり、有名人になることが「喜び」と思う人もいるでしょう。簡単に言うと「経済」「名声」「愛」を手に入れた状態だと思います。
反対に、経済的に困難で、したい事が出来ず、自分が望む愛を手に入れることが出来ず、人の目にとまらない人生は、つまらない人生だと感じることが多いと思います。
しかし、時々、人の目には「成功者」だと羨ましく思っていた人が「自殺」という選択をしたりします。第三者からみると成功者に見える芸能人の方の悲報を聞くこともあります。
人々が羨ましく思える環境にある人が、実は心が満たされていないというだけでなく、みじめな思いで生きている人も多いのです。だから「え?あの人が自殺?」「どうして?」「何が不足?」「勿体ない」「自分だったら自殺しないだろうな」「自殺する理由がないように思える…」というような思いが起きます。
人間は、皆が得たがっている「経済」「名声」「愛」を手に入れても「喜び」がない人生の人もいるのです。
「喜び」を感じる人生であれば、自殺することもないと思いますが、「喜び」が感じられない人生は、きっと凄く生きる事が辛い人生だと思います。
私たちが思っている「喜び」を感じる条件と、主から得る「喜び」は違うのです。
人間的な喜びは一時的です。望むものを手に入れた時、喜びを感じ、それを失ったら喜びもなくなります。 また一時的にテンションも上がり、一気に喜びの頂点に達し、時間の経過と同時に喜びの頂点も下がってきます。
「主から来る喜び」は、自分の置かれた状況に左右されないのというのが一番の大きな違いです。
「主から来る喜び」は、自分の心の中から、霊的なものが喜びを感じます。
「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」(ヨハネ4:13-14)とあるように、
内側から湧き上がる泉の様な喜びです。
この泉のように湧き上がる喜びは、環境や条件はないです。経済的問題、トラブル、名声などあるなしに関わらず、「喜び」を得ることが出来るのです。
私たちが住むこの世の中のものに、永遠に変わらない物は存在しません。「諸行無常」です。
努力で手に入れた「名声」も「財産」、「愛」でさえ永遠に変わらず存在するものはないのです。
ですから、人間的な喜びには永遠の喜びが存在せず、喜びを感じたとしても一時的なものとなるのです。
反対に、永遠に変わらず存在するものは何でしょうか?
「神の御国」です。神の御国は、今も私たちの中に存在し、未来にも変わらず存在するのです。
「神の御国」から得る喜びは不変的なのです。
経済的に凄く苦しく日々ストレスを感じている人は、「とりあえず、経済的に余裕さえあれば・・・自分の人生は幸せを感じるだろうな」と切に思うと思います。(私も)
でもこれは錯覚であり、自ら落とし穴に落ちていく思想だと常に気を付ける必要があると思います。